建築の言い訳

ヨーロッパの都市建築のあの重厚な建築群に囲まれて暮らしていることが慣れてしまうと、日本のどこの都市を訪れても、ここにはどこか今現在の状況だけがあって過去も未来とも接続しないどこか荒地に来てしまったのではないかと思うことがある。強さと優雅さを誇示するスローガンのようなあのヨーロッパの建築は、威圧的ではるけれど慣れ親しんでしまえば、あれが何を意味しているのか意識的に理解してないにせよ、自分とは直接的に繋がっていないにせよ何かどこか懐かしいというか過去との接続を視覚的に直接的に伝えるものであり、その都市の土壌に暮らすという安心感があるものだ。しかしながら、日本の都市建築の特色といえば、鉄道駅の中心にして作られる資本主義の要請によるグロテスクで狂気の沙汰ともいえる商業施設くらいで、あとの残りの住宅というのは、それぞれ個人が好き勝手に乱雑に作り上げており、都市総体としてはカオス極まりない。住宅地において、隣接する建築同士の関係性は一切なく、単にそれより上位にある建築法を遵守しているかだけだ。和を重んじるという日本の精神はどこへ行ってしまったのだと質問したくなるくらいの乱雑さだ。しかも、住んでいる人からすると対してこれが気になるような問題ではないらしく、これが今の<状況>だということらしい。ヨーロッパのような宗教じみた都市計画もそうじゃないんだよと言いたくなるけれど、日本のこの荒れ放題はなんなんだ。これはどこへ向かっているというのだ、むしろどの方向にも向かえていない今現在の状況に閉じ込めているのではないかと絶望的な気分になる。

建築や都市計画というのは権力を生み出す、危険な匂いのする業界であるし、いくつかのアーティストが後年になって突如として都市計画や建築作品を発表したりする例(クリス・バーデン、ヴィト・アコンチ、荒川修作など)を見てこの領域は魔界なのもしれないと思っていたけれども危険なところらしい。いずれにせよ欧州から日本に短期的な旅行を通して、建築家が意識的なのか無意識的なのは知らないけれど、何もなかったところに何か気配と配置することによって集団洗脳の源泉のようなものを発生させようとする建築の魔術みたいなものが見え隠れているような気がした。

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