革命と言語
百貨店そごう・西武の労働組合が8月31日からストライキを決めたというニュースがあった。日本の百貨店でストライキが決行されるのは60年ぶりだということで騒ついたニュースになっているのだが、こちらヨーロピアンの人々に聞いてみると「まあ労働者の意見を述べる貴重な機会だから同然だ」だというし、僕の住んでいるオーストリアでもインフレを背景に賃上げを求めたりするビール工場やスーパーや鉄道職員が警告ストやったり、少し前行ったロンドンではひと月まるまる、病院や救急車を含む多くの産業が連続的にストライキを実施してるのを見てきたので、日本でもどんどんやったほうがいいし、僕もこの欧州の人々に学ぶことは多いなと思うことが多い。
僕がウィーンに引っ越してきてからもう7年が経過してしまった。外国に暮らすということは外国の文化習慣や考え方を学ぶことを伴うし、それは避けて通れない。オーストリアの公用語はドイツ語なので、言語だけを学べばいいかというとそうではくて、その背景に横たわる考え方そのものを理解しようとしないとかなり厳しいと感じることがよくある。たとえドイツ語を一字一句正確に理解できたとしても、その背後に続く長い歴史の中で形成されてきた価値の基礎を理解するまでは、長い道のりがある。
ヨーロッパに住んでいると時々「この社会は極端な言語優位社会だ」と思うことがよくある。言語は自然社会を支配する超権力なのではないかと感じることがあると言っていいのかもしれないし、それはどこか暴力と恐怖を帯びている、革命も呼ぶ力を秘めているし、そして彼らの話し方は矛盾を徹底的に排除しようとどこか数学のように緻密なロジックを使って話しているように聞こえる時があって、どこか不思議な気持ちになるものだ。そしてその傍ら、彼らの会話の内容はどこか宗教的な「善悪」に依ることがあって、たびたび困惑する。考えてみれば、キリスト教の聖書は言葉で書かれてる。そしてそれは時空を超えて影響を及ぼすことに成功した(解釈問題があるにせよ)。
そうだ言語は混沌とした自然社会を人間が認知可能な枠組みの「定義」により未知なるものを「真」に変換して掴み出す魔術のようなものだ(魔術も言語を使うのはこのためだろうか?)、ただこのヨーロッパではその定義そのものが「現実」として現れていいないだろうか?(魔術者が呪文を唱え、それが現実の炎や氷などの事物として出現するのはそのためなのだろうか?)と感じることがある。「私は日本人だ」と言うと、私は日本人になってしまう(同時にそれを聞いた周囲の人は私は日本人だと真に信じる(こと)が善である=嘘をつくことは罪であるから、彼は嘘をついていないはずだ)といった具合に、個人が発する言葉が世界を定義していき世界を構築していくようなスタイルだ。僕は意識下でどこかそれに本能的に抗おうとしているが。ただ僕が言おうとしている真意は「僕は日本国政府が発行したパスポートを持っているし、国際的通念に照らし合わせておそらく僕は日本人と定義されるが、「いつ」僕が日本人になったのかわからないし、両親も日本人だと思うがその証拠は戸籍が日本にあるということくらいしかないが、今は日本人だとしておく」ということを短く言っているだけだ。僕はあやふやな存在だ。こんな話し方をしたら、ヨーロッパに限らずどの社会においても面倒臭いに違いないが、これが真だと思う。もちろん、細かく説明すればヨーロッパでも上記のことは理解されるが、なんでそんな面倒臭いこと考えてるの?と不思議がられる。
ヨーロッパにおける「アート」も定義を扱う学術だ。アートは自然社会の定義を時代に合わせて「更新」し社会に影響を及ぼしてきた。この更新こそがアートの存在意義(この更新が社会全体を前進させる)そのものであると言って過言ではないので、学術的(学術は社会にとって有益であるはずだ)な分野として扱われその存在価値が社会的に保たれている。そのため、たびたびヨーロッパで言語を多用したミニマリスティックな美術作品を多く見られるはそのためだろうとずっと考えてきたし、そもそも日本でアート(日本にあるのは、美を扱う美術だけだ)が存在しない、そもそも日本社会には自然社会を「定義」する影響力が存在しなかったので、そもそも更新するものがなく革命が起きないのはそのためだ。我々の日本の先祖は何も定義してこなかったし、何もかもあるがままに放置された——それは素晴らしい柔軟性を獲得したと同時に死と生の違いさせも曖昧にしかねないくらいに危なくもある。話して僕はこのヨーロッパから何を学べるだろうか。
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