世界史Vol.6「古代オリエント世界」③小アジアのヒッタイト
世界史の教科書でよく見かけるのは、「製鉄技術を開発したヒッタイトが古バビロニア(バビロン第1王朝)を滅ぼした」という記述です。そして、軽戦車に乗ったヒッタイトが資料集に載っているのを見た記憶があるかもしれません。しかし近年、小アジアで帝国を築いたヒッタイトに関する研究は進んでいるようで、ヒッタイトが現れる1000年も前から小アジアで製鉄技術が存在しており、実際に武器などで鉄器を使用したのはヒッタイトの歴史でも終盤であると考えられているようです。さらに、2023年にはカラシュマ語というこれまで発見されていない言語が発見されたそうです。
このように、古代に関することは新しい発見がされる度に更新され、10年前に学んだ歴史とは異なる事実であることが判明しました。ここに古代の歴史を学ぶ面白さがあると思っています。現代とは違って数々の研究から推測できること、例えば、粘土板に記録されていることや出土品、周辺諸国に残されている資料と照らし合わせることで、未だ発見されていない真実に近づけるというロマンが感じられます。そういった面白さを私が行うレッスンや記事などで共有できれば何よりです。
前回の記事では、メソポタミアにおけるシュメール人都市国家が衰退してから現れた統一国家の変遷について学びました。そして今回は、インド=ヨーロッパ語族で現存最古の言語を持つヒッタイトを見ていきます。ヒッタイトは、古バビロニア(バビロン第1王朝)を滅ぼしたものの、メソポタミアにはとどまらずに小アジアに戻っていきました。このように、通史ではなかなか触れることができないヒッタイト帝国の内容について少し詳しく知っていただき、歴史を学ぶ面白さを感じていただければと思います。
一般的な問い
古代における「多言語・多民族」な国家であることのメリットは?
現在はグルーバル化が進行して、移民を積極的に受け入れている国は多様な民族で構成されています。小アジアのヒッタイト帝国も同様にいろんな民族が共存していました。
移民を受け入れることで起こる問題もありますが、古代における多民族国家にはどのようなメリットがあったのでしょうか。これらについて考える視野を広げていくと、多民族国家を生きる現代の人々にとっても学べることがあるのではないでしょうか。また、日本もこれから移民を受け入れる方針になっているので、何か参考にできることがあるかもしれません。
ヒッタイトの歴史(概要)
前14世紀頃から領土を拡大し、メソポタミア北部のミタンニ王国を滅ぼしました。そして、エジプトやバビロニアともぶつかっています。
ヒッタイトは民族移動や海の民の影響で滅亡しました。その後、極秘とされていた製鉄技術は海の民によって人がっていきます。
混乱と衰退の時代
古バビロニアの滅亡と混乱
前16世紀にヒッタイトが古バビロニアを滅ぼしますが、王ムルシリ1世はその後、義弟に殺害されてしまいました。暗殺後は混乱の時代が続きますが、やがてテリピヌという王が国の再建にかかります。
テリピヌの治世
彼は国家体制を整えるために、国内の法律の整備や他国との条約を結びました。この頃から、既にメソポタミアにあった賠償という概念がヒッタイトにも浸透していました。また、当時では珍しい女性の権利が保障されている部分もあって、妻の判断が尊重されたり離婚後に補償などが行われていたそうです。
都市に見られる高度な技術
ヒッタイトは自給自足で農耕・牧畜が中心でした。特に都のハットゥシャは進んでおり、下水だけでなく粘土性の水道管が上水としても整備されていました。ちなみに、都市の衛生問題は深刻であったため、下水はメソポタミアでも整備されていました。しかし、街に引っ張ってくる上水道はヒッタイトが初めてと言われています。
また、当時の重要な職業の1つに書記があり、記録や翻訳などを行なっていたそうです。ヒッタイトは多民族国家であったため、シュメール人やアッカド人のそれぞれの言語の記録も残しました。このように細かく残された記録があるからこそ、現代の私たちがかつてのヒッタイトについて理解することができるのです。
発展と拡大
エジプトで息子が暗殺されたシュッピルリウマ1世
彼は領土を拡大し、ヒッタイト帝国を築いた人物として有名なのはシュッピルリウマ1世です。それまではヒッタイトはかなりの小国になってしまっていたのですが、軍人としての才を発揮した彼によってヒッタイトは大国に成長したのです。
彼の治世では不思議な出来事がありました。それは、敵対関係にあったエジプトから「王子を一人送ってほしい」という願いが届けられたことです。初めは疑っていたシュッピルリウマ1世でしたが、エジプト側からの複数回にわたる説得もあり、息子のザナンザをエジプトに送ることにしました。しかし、彼はエジプトに着いてから殺されてしまい、シュッピルリウマ1世は激怒しました。多くの謎が残ったままの事件ですが、若くして亡くなったツタンカーメンの王妃から、エジプトの統治を安定させるために送られた書簡だったと今では考えられています。
シュッピルリウマ1世はシリアのエジプト領を攻め捕虜を連れて帰りますが、それが原因で疫病がヒッタイトで流行してしまいます。その疫病によってシュッピルリウマ1世自身も命を落としました。
漫画のモデルにもなったムルシリ2世
シュッピルリウマ1世の後継は、漫画「天は赤い川のほとり」の主人公のモデルにもなったムルシリ2世です。疫病が深刻な状況で、神の怒りを鎮めるために祈り続けたとされており、自ら戦争を指揮していました。疫病によって人口が減少すると人狩りや家畜を目的とした戦争も行われていたようです。
カデシュの戦い
ムルシリ2世の子、ムワタリ2世の時に前エジプトとの領土争いであるカデシュの戦いが起こりました。カデシュは、シリアの中でエジプトにとって大切な場所であり、その属国であるアムルの覇権を争う戦いでした。ヒッタイトがシリアへの進出を狙っていたことから、エジプト第19王朝の王ラメセス2世はシリアに進軍することを決定し、前1286年にカデシュの戦いが始まりました。
世界史では、その後のヒッタイトがエジプトと締結した世界初の国際条約が有名ですが、この戦いもなかなか興味深い展開だったようです。初めは、ヒッタイトがエジプトにスパイを送りそれに気づくことができなかったラメセス2世はそのまま出撃することを決めてしまいます。さらに進軍の途中でラメセス2世の失策により4つの師団が分断されてしまってエジプトが不利だったものの、ヒッタイトが途中で略奪などに走ってしまいました。そこでエジプトは体制を立て直し決着がつかないまま戦いは終わります。エジプトの壁画にはラメセス2世の活躍が大きく描かれており勝利の記録として残されていますが、ヒッタイト側も自国の勝利として記録しています。ただ、属国のアムルがヒッタイトに所属したことから客観的に見るとヒッタイトの勝利だとするのが一般的なようです。
初の国際条約
カデシュの戦いの後、前1259年にハットゥシリ3世がラメセス2世との間に平和条約が結びました。これは初の国際条約として知られており、相互不可侵、相互軍事援助、亡命者の扱いなどが決められました。これはヒッタイト(ボアズキョイ)とエジプト(カルナック・アメン大神殿)の双方に記録が残されていたことから、両国が内容に同意して作成されたことが分かります。
そして、ヒッタイトからエジプトに条約の内容を確認するために贈られた銀のタブレットはいまだに見つかっておらず、これが見つかると世紀の大発見だと言われています。また、ヒッタイトの王妃プドゥヘパもエジプトとの関係を良好に保つために重要な役割を担っており、カデシュ条約の記録にも名前が残っていました。そのため、ヒッタイトの中では王妃もとても大事な役割を果たしていたと考えられています。ちなみに、ヒッタイト側は、メソポタミアの公用語である楔形文字のバビロニア語(アッカド語)で残されています。
また、条約の構成は現代におけるものとほぼ同じ構成になっているようで、歴史、規定、宣誓、神々に誓うという形で構成されたそうです。約3000年前の時点でこのように国家間での取り決めについてきちんとした形式があるのは驚きです。
詳細不明の衰退期
ヒッタイトの滅亡期に関する資料はほとんど残されていません。近年の研究では、気候変動の影響により旱魃がひどくなり、それによって引き起こされた人々の対立が原因だったのではないかと考えられています。さらにこの時期は、作物が取れずに困っていたヨーロッパから移民が多く流れ込んできたことも一因とされています。そして、エジプトの記録では最終的に海の民の影響で滅んだとされています。
まとめの問い:戦争の目的は何かを考える
ヒッタイトにおいて、エジプトとの初の和平条約は歴史的意義の大きいものです。人類のこれまでの歴史を振り返ってみても、争いが絶えることはなく今でも紛争は世界のどこかで起こっています。それは古代においても同様であり、なぜ戦争が起こるのかを考えてみる機会をもってみても良いのではないかと思います。現在では宗教的な対立や領土問題から起こる戦争が多いですが、かつても同じような背景があり、国境や属国との関係の問題、政治・経済的な動機から戦争が起こるようです。時代が変わっても戦争の原因に共通点があるとしたら、今を生きる私たちは歴史を学ぶ意味があると言えます。
<学びを深めるリンク集>
ヒッタイトについてほとんど何も知らず、鉄器の使用についても誤解していた私にとって、とても良い学び直しの機会になりました。ヒッタイトに関して研究をされている方、並びに情報を発信してくださったみなさんに心から感謝したいです。
https://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/tayori/106p2.pdf
<参考にした文献>