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私たちにとって何が「幸せ」なのか-『ホモ・デウス-テクノロジーとサピエンスの未来』で学んだこと④ 【Aflevering.127】

 以前に『サピエンス全史-文明の構造と人類の幸福』について考察した記事でも、この「幸せ」というテーマを設定しました。
 「幸福」は人によって定義が異なるため、とても難しいテーマです。そして、私もまだ「幸せ」というものがどういうものなのかが分かっていません。美味しい食事を食べたり、友達や家族と一緒に過ごしたり、スポーツの成果を感じたり、仕事で誰かの役に立てた時など、いろんな種類の幸せがあります。

 そこで大切なのは、自分の幸せの背景に誰かの不幸がないかを考えることだと思います。
 確かに、誰かの不幸の上にある幸福を知らず知らずのうちに味わっていることも現実としてあると思います。
 しかし、それをゼロにはできないとしても、そこに意識を向けることは大切だと思っています。反対にそればかりを気にして自分の行動を抑えることもあまり良くありません。
 先述のように、私の中でのまだ答えは決まっていませんが、今日は幸福について学んだこと、考えたことをまとめておきたいと思います。

 まずは、本書で紹介されていた「幸福」に関するユヴァル氏の考察の中で、私が興味を持った部分をいくつかまとめておきたいと思います。

アメリカの幸福追求権

 アメリカ独立宣言には幸福を「追求」する権利のみが保障されました。日本国憲法第13条にも規定されています。
 私は何となく、「自由・生命・幸福に対する追求権」と並んでいることに対して何も意識はしていませんでした。
 しかし、生命と自由は保障されても、国民の幸福において国家が保障するのは、追求する権利までとされているのです。
 生命や自由とは違い、幸福については追求のみに留めるところは「幸福」についてはどう考えられていたのか、もう少し勉強したいと思います。

「子どもの幸福」について学校教育から考えたいこと


 "伝統的な社会と比べて先進諸国のほうが繁栄していて、快適で、安全であるにもかかわらず、自殺率がずっと高いのは不穏な兆候"というのがとても印象的でした。

 私は日本の15〜34歳の若者の自殺率の異常な高さや、子どもの精神的幸福度(ユニセフの報告より)における順位がかなり低いことがとても気になっていました。
 そして、それは私が現場で抱いていた子どもたちが「学校に来て疲れているのではないか」という疑問に結びつきました。

 学校教育についての議論はとても難しいです。しかし、課題をたくさん与えられたり入試のための詰め込みの勉強と、将来それが何の役に立つのかというジレンマを解消しないまま、学校の勉強と向き合うのはとても苦しいことなのではないかと私自身は思っていました。
 現場の先生方は、まずは大学に行かないと何にもならないと言う方が多く、その現実は日本の中ではまだそれを一部認めないといけないかもしれませんが、詰め込みの授業自体を見直そうとする先生はあまりいませんでした。先生自身もどうして良いのか分からない状態なんだと思います。

 社会の規定や教育制度という「虚構」を、すぐに変える力が私には無く、一般企業で働いている友人から聞いた社内での働き方の話を伝えたり、書籍やニュースなどから学んだ情報を、いろんな視点から生徒たちに伝えました。
 そして、現状(2019年度までの)として最終的に暗記を求められる試験は変わらなくても、それまでにいたる学習方法を見直すというアプローチを続けてきました。

幸福の追求は終わることがない

 本書では、幸福の追求について「境遇が改善されると期待も増大する。そして、期待と幸福は、生化学的作用によって決まるため、快感を期待し、それを経験した後は下降のみのため、もう一度昇進が必要となる」と述べられていました。

 以前、ブッダや禅についてコメントをいただいたり、本を読んだ時に学んだのですが、何かを求めること自体が不快を招くことであるため、不快を抑えるために何かを求めることを止めるという発想を持つという考えを知りました。

期待と結果

 ヨーロッパの近代以降、将来に対する期待こそが人間の活動する元となり、その構造によって世の中が発展してきました。すると、期待した分のリターンがなかった場合はどうなるのでしょうか?その時はきっと不快になります。

 不快になることを避けるために、人々はどのような行動に出るのでしょうか。
 例えば、投資をして思ったほどのリターンがないかもしれないとわかった場合、投資額を当初の予定よりも増やしてしまったり、不正を働いてしまうこともあると思います。
 それほど成果への期待というのは、人の原動力でもありながら人を脅迫する機能も持っているのだと思います。

哲学的な問いに自分なりの答えを持つ

 「人に優しくするのは、その人のためなのか自分の気分のためなのか」

 この問いに対して私なりに考えてみました。
 誰かを助けて誰かが喜んでくれることが自分にとっての幸せであるので、最終的には自分のためなのかもしれません。しかし、自分の幸せが他人の幸せを前提とするのであれば、自分のためであっても良いのではないかと考えました。

考えることで物事をいろんな角度から見る癖が付く

 書籍やセミナーなどで他の人の考えに触れることで、新しいアイデアを再構築することができます。

 読書をする前は、他人の考えに触れることの価値に気づいていませんでした。しかし、読書をすることによって、自分がこれまでにあまり考えていなかったことを考え直したり、当たり前だと思い込んでいたことを見つめ直したりすることができました。
 また、似た考えを持つ人でも少し細かいところで考えが異なっており、それが学びになることもあります。
 読書をすればするほど、自分の考えも少しずつ深まり、もっと考えてみたいと思えるようになったことが私の人生にとって良い体験になりました。

 今回の『ホモ・デウス-テクノロジーとサピエンスの未来』(以下、『ホモ・デウス』)を読んだことによって、新たな発見がたくさんありました。ユヴァル氏にはきっと人生で会うことも話すこともないと思いますが、彼が歴史を研究し、どのように考えてきたのかという話を書籍を通じて知ることができて本当に良かったと思います。

 読書をしてアウトプットをすることで、自分の頭の中の整理にもなりました。

<参考文献>
・ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之 訳『ホモ・デウス(上)-テクノロジーとサピエンスの未来』(河出書房、2018)
・ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之 訳『ホモ・デウス(下)-テクノロジーとサピエンスの未来』(河出書房、2018)

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