【短編小説】今日が終わる前に
残業なんてクソくらえだ!
胸中でそんな悪態をつきながら俺は急ぎ足で会社を出る。そのあとは普段使っているバス停まで全力疾走だ。
チラリと腕時計に目を向ける。時刻は23時を過ぎたところ。あと1時間もないうちに今日、9月30日が終わってしまう。
早く、早く帰らないと……っ!
これだけ走るのは、たぶん高校の体育祭以来だ。
日課として軽い運動はしていたけど、それでも高校時代に比べ体力がすっかり落ちてしまっている。会社を出てまだ2分ほどしか経っていないのにもう足が痛くなってきた。
それでも走り続ける。どうしても、今日中に帰らないといけないから。
「はあ、はぁ……っ、ま、間に合った……」
時刻は23時10分。なんとかバスが来る時間に間に合った。
呼吸を整えながら、あと数分で来るであろうバスを待つ。
しかし――
あれ、バスが来ない?
時刻表に記されている時間になったというのに、バスの姿が一向に見えない。以前利用したときは遅れずにやって来たというのに。
俺は思わず唇を噛む。
くっ、今日は厄日かっ!
一刻も早く帰宅したいというのに、ここにきてバスが遅延。急な残業といい、本当に今日はツイてない。
胸の中でジワリと焦りが広がっていくのを感じながら、俺は何度も時刻表と道路に目を向ける。そんなことをしていても、当然バスが急に現れたりはしない。
どうする? もうタクシーを使うか? でも今から呼んですぐ来るものなのか? 使ったことないからわかんねぇ!
どうしたものかと悩み続けていると、ふと同じくバスを待っていた人が道路のほうへ顔を向けた。
つられてそちらに目を向けると、一台のバスがこちらに向かってきていた。系統番号も合っている。
時刻は23時30分。予定より10分以上の遅れだ。
バスが出発すると、運転手が遅延していることをアナウンスする。なにが原因かはわからないが、それでよかったと思う。もし原因がわかってしまうと、今の俺ならその原因を激しく恨んでしまっていただろうから。
大きく息を吐いて、心を落ち着かせる。
バスに乗った以上、あとできるのは下車駅を間違えないこと。それと、なるべく信号に引っ掛からずに進んでくれることを祈るだけ。だから焦る必要はない。必要はない、のだが。できることがないからこそ、余計に焦りを感じてしまう。
バス停で一度停車する。降りる人はおらず、バス停で立っている人も番号が違うからか乗ってこない。この時間すらもどかしい。
早く、早く進んでくれ……っ!
指先が冷たくなり、喉が渇く。目は腕時計とバスの進行方向を行ったり来たり。
刻一刻と10月が迫る中、ようやく降りるバス停に到着した。
時刻は23時48分。残り12分。
バスを降りた俺は、本日二度目の全力疾走をする。
時間が時間なため他に出歩いている人はおらず、ほとんど配慮せずに走ることができた。
間に合え、間に合えっ!
やたらと足止めしてくる信号に苛立ちを覚えながら、俺は家を目指して一心不乱に走り続ける。
そしてようやくマンションが見えてきた。もう信号もないので邪魔されることはない。
カードキーで解錠しエントランスに入る。それからエレベーターに乗り4階のボタンを押す。
エレベーターがあってよかった。楽だし、他に人がいなかったら階段よりも速い。
すぐさま4階に到着し、俺は最後の一本道を走る。部屋の前に到着し鍵を開けると――
「お帰り、お兄ちゃん」
ラフな部屋着に身を包んだ妹、真唯の姿がそこにあった。
「た、たっ……ただっ、いま」
無理やりに呼吸を整えながら言葉を返す。
腕時計を見ると、時刻は23時59分。なんとか、なんとか間に合った。
俺は一度深呼吸をしてから改めて真唯に目を向ける。
「真唯、誕生日おめでとう」
「ふふっ、ありがと」
真唯は肩まで垂れる黒髪を耳にかけてはにかむ。
9月30日。真唯は20歳になった。