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苦行は人を成長させるのか

 私は小学生の頃から漠然と人間力が高い人になりたいと思って生きてきました。苦しい経験も幾度と経験しながらも乗り越えていくことで、放たれる風格と発する言葉の魅力が高い人物になりたいと思っていたのです。

 そして、そんな人になるためには人生を修行の場として認識し、困難なことに自ら足を踏み入れていくことが必要だと思っていました。

 困難は人を成長させ、そこから学んだことを通して自分の可能性を広げたり、他人に優しくなれるような共感性を生むと思っていますが、あるとき修行の仕方を間違えれば、単なる苦行の域を超えないことに気づきました。

 辛い辛いも修行のうちだからと過ごし続けることにも反作用があることを知ったとき、衝撃を受けた気付きについてご紹介したいと思います。

釈迦は苦行を否定していた

 釈迦は苦行に何年も耐えることで悟りを開いたわけではなく、その後の瞑想によって迷いの世界を超え、真理を体得することができたとされています。釈迦は苦行の限界を感じたからこそ、それまで一般的とされていた修行=苦行というのを全肯定することはなかったのだと思われます。

 釈迦は苦行について、次のような欠点があると批判をしています。

①自己満足
②思い上がり、他を軽蔑
③苦行に酔いしれ放逸になる
④金品の供養、称賛うけて満足
⑤他を軽蔑
⑥金品等で放逸
⑦食物の好き嫌い、執着
⑧他の修行者やバラモンを非難
⑨他の修行者、バラモンが多くの信者をもっていることに嫉妬する
⑩四ツ路で苦行を見せる
⑪托鉢で得たものを苦行で得たと言いふらす
⑫全き人の教説を認めない
⑬自説に固執

 これらの内容を見ると、「苦行に徹しすぎることで善行(正しき行い)を忘れてしまう場合がある。それは問題だ。」ということを言っているのだと思われます。

 このことから、苦しいところに身を置けば他に優しくなれるような魅力的な人間になれるとは言い切れないなと思いました。苦行に身を徹すれば悟りを開けたり、人間的に成長できると思うのはとても安易なことなのかもしれません。

苦しさの連鎖にいるのは自分の身を守るためかもしれない

 2つ目の参考となるのがアドラー心理学の目的論です。目的論とは、あなたが「○○できない」と思っている理由は過去の原因にあるのではなく、「○○できない」自分でいることの目的を持っているからであると考える理論です。

 会社を辞めて起業するぞ!と勢い込んで挑戦するよりも、挑戦できないのは私が不安になりやすいタイプだからだと思いこんでいたほうがチャレンジしなくても済むので傷つかなくても済みますよね。これは、起業をしたいという思いと相反する傷つきたくないという目的を持っているという状態です。

 私はこんなに恵まれていないから○○にはチャレンジできないんだと嘆き苦しみ続けることでチャレンジしたいという思いから目を背けられるという目的を達成しているのです。

 行動することで苦しさも嬉しさも味わいながら進むより、挑戦できない理由をあげているほうが苦しい可能性もありますが、それでは現状を変えることはできないのではないでしょうか。

 ときには動きたくても動けない苦しみの連鎖にとらわれることもあるでしょう。しかし、現状に留まり苦しい状況にいることが高尚なことであると思いはじめたとしたら注意が必要かもしれません。苦行を経験すれば人は成長するとは限らないためです。

まとめ

 私は目的論の考えに出会ったとき、チャレンジできないことは全て言い訳になるかもしれないと思い、残酷な話だなと思いました。

 しかし、苦行はその方向性を間違えれば、必ずしも人を成長させないと知ったことで、いつまでも苦しい苦しいと叫んでいてももったいないのだなと気づくことができました。

 ときには幸福も味わいながら進めなければ味わい深い人物になれないのかもしれません。

■参考情報
・愛知学院大学禅研究所
『釈尊「六年苦行」をめぐって』奈良康明
https://zenken.agu.ac.jp/research/48/15.pdf



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