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日々の繰り返しの中に幸せがあるのかもしれない

気分に波がある。以前に比べたら圧倒的に良くなったけど、毎日フラットというのはやっぱり難しいのだろう。でもそれでいい。人間、気分にムラがあってなんぼだ。

ここ最近は、出勤して仕事してバカみたいなことを喋って、帰って風呂に入りごはんを食べて寝る、というような、いわゆる家と職場の往復というのをやっている。
働き始めた時は、これが世間の普通とはいえ、とてもじゃないがこんなことは続けられないと思ったが、月日が経つにつれ慣れてきたみたいだ。こういうことは今まででに無かったような気がする。
理由はいくつか考えられるが、パッと思いつく所だと、朝礼が無いとか、昼休憩は一人で過ごせるといった点だろうか。些細なようで、私としてはかなり重要だ。以前いた所では、狭い休憩室でみんなでごはんを食べるのがあまりにも嫌で、昼は一人で食堂に行ったり、屋上で外の風を浴びながらお弁当を食べていた。今の所は、朝礼ダルいとか昼は一人で食いたいよね、みたいな感じなので大変助かっている。
働きたくなさよりも、もはやそれがために今の職場が嫌な理由を探す事の方が骨が折れるように思う。
それに私は、趣味もやりたいことも少ない人間なので、雇われて働くということや環境にある程度慣れると、それなりにやり甲斐を感じる質であるのだろうと思った。そこに波はあれど、まぁ今日も1日やって帰るか、といった感じで職場まで車を走らせている。
ちなみにバレンタインの今日は非常にやる気がなかった。『女の園の星』でバレー部のタペストリー制作を依頼されめんどくさがっていた小林先生と同じような状況だった。いきなり好きな漫画を出してしまった。労働なんてクソ食らえだ。

ただ家と職場を往復しているだけだが、気分は毎日多少なりとも違うし、天気や外の雰囲気もなんとなく違って見える。人もそうだ。
だから、最近はほぼ毎日日記をつけている。ドラマチックなことは何もないのだけど、平穏無事に暮らせていることにありがたさを感じている。
思えば、ニートの時もそうあった。たまに図書館に出掛けたり外に用があったりする以外は同じ日々だった。どんな状況でも、何の変哲もない日常があるというのは幸せなことだ。

今は人が生きているということや死ぬこと、なぜ私が存在するのかということは全然考えられない。それに、本もあまり読めていない。ニート中はよく読んでいたが、それもその時に必要だったからであろう。今色々できていないように思うけど、きっと別の何かが必要だからだろう。

ひとまずは、自分と向き合って過ごしているつもりだが、最近は少し内にこもり過ぎている気もしているので、もしかしたら何かを見逃しているかもしれない。そこの塩梅が難しい。

これからも、同じような日々の中にある違いに目を向けて生きていこう。
過去でも未来でもなく今を見つめて、健康で楽しく過ごせたら嬉しいなと思う。



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