違和を与える存在
いつもより早い電車に乗ったので、久しぶりにまぁまぁ混んでる電車に乗った。暑い。天気もいいせいか、暑い。乗ってくる乗客に動揺し、降りていく乗客を願う。こんなの月イチくらいにしたいと思ったそんな朝。
一日働いて、14年来の友人と仕事終わりに2時間程電話で話した。僕はLINEでつながっている人とも、大抵は電話で話す。なんとなく、通話の安定性で言ったら電話の方が上なんじゃないかと思っているというのもある。通信容量を考えてしまうというのもある。その友人とは電話番号でしかつながっていないというのもある。14年来の友人だから、会話のルールがあうんのリズムで続くので、それが心地いい。その中で安心したのが、自分の価値観、考え方が変わったということ。かつて自分の言っていたことが、今では違う考えになっていたこと。僕はかつては、結婚というものをまあまあ重たく考えていて、こんな相手で大丈夫なのって他人事ながら思うこともあった。ところが今では、結婚というものをもっとカジュアルなものと考えていて、パートナーなんて一生涯とも限らないし、いろんな夫婦の関係があるし、その大部分は本人同士のことなんだから、少なくとも部外者がどうこう判断できるものでも、判断すべきものでもないと思っている。また、仕事観についても、大きく変わったと思う。自分では流動的で多様な仕事観を持っていたつもりだったけれども、それが机上の空論から、実感の持ったものに変わったように思う。自分自身が多様な働き方をし、実態のある物理的な場所で働く、多様な労働者の在り方に触れられたことが大きい。また、海外の捉え方についても、日本と海外の二元論的な捉え方から、世界の中の日本、日本以外の地というより全てを包括した概念としての世界観に変わったように思う。そんなふうに、その良し悪しは別としても、変化していたということが実感できたことに安心した。自分はもう変わらない、変われない存在なのかもしれない。いくら学んでも、経験を積んでも、本質の部分、特に世界観や宇宙観、思想や信念、覚悟や志向が変わらなければ、それは小手先のパーツを変えたに過ぎない。そんな不安もあったけれど、確かに自分は変化している。それだけでも、環境を変えて良かったと思える。変化こそは、僕が自分の現在を肯定する一つの指標であり、正義であり、正しさだと思うからだ。
さらに、今日はスペースで久しぶりに話した。いつもは作業をしたり、ストレッチをしたり、もやもやとした気持ちを抱えながら、その時間をやり過ごすための手段として、ひたすら聴いていることが多い。それは第一に、自分自身がその語り手と語りたくないということ。自分という存在が、素敵な語り手に水を差したくはないのだ。けれど、なんとなく興が乗っていたので、三十分程お話しさせていただいた。機器に関する問い合わせから、ポッドキャストのことまで、先方は眠気の限界に達することを感じつつも、お話しさせていただいた。僕は夜中にかけて絶好調になっていくので、やや申し訳なく思いながらも、楽しく会話させていただいた。基本的に話したがりで、今日も職場で6時間くらいはいろんな人と世田話に華を咲かせていたのだが、その後に2時間以上に渡る友人との会話を経てなお、会話欲に満ち溢れていた。そりゃそうだ。元来とりとめもない話の好きな撲なのだ。これまで話してこなかった方がおかしい。でも、まあまあ異色派だという自覚はあるので、多くの場合自粛することが多い。どの属性とも違和をもって接するという点で、違和に寛容であったり、違和に慣れていたり、違和を前提とする場でなければ、不快感にも似た思いをさせてしまうことも多いと思っている。そんな違和を与える存在として、僕は僕を制限している部分がある。その抑圧が、たまに膨らんで、ほんのりにじみ出てしまうことがあるのだ。そんな本日であった。
薬指の痛みが薄れてきて嬉しい。心持ち咳喘息の症状も和らいでいるので、ゆっくり休めそうだ。そんなときのハーブティーは。やさしく、落ち着いた味に感じられる。あとは先ほど食べたモツ煮がゆったりと消化され、寝起きを妨げないことを祈るばかりだ。昨日もおとといも、そのあたりの戦果はかんばしくない。今日こそは落ち着いた眠りと、穏やかな起床を得られますように。今日も、願い事をして寝よう。お金がたくさん舞い込みますように。