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「僕が死のうと思ったのは」

今日は1年ぶりに応援しているアーティストのライブに行った。その中で歌われた「僕が死のうと思ったのは」が不思議と耳に残っている。

歌は、誰がいつ歌うのか、誰がいつ聴くのか、その他さまざまな変数によって変化する。

この歌は何度も聴いたことがあるし、特徴的な歌詞も何度も読んでいる。それでも、何故か今日はその言葉が心に入ってきた。

本を読むときと同じように、歌の言葉も、同じ言葉でもその時々で心に入ってくる様相が変わってくる。


この歌、「僕が死のうと思ったのは」は中島美嘉の楽曲であるが、amazarashiのセルフカバーも知られる。

中島の歌は抒情的だが、セルフカバーは淡々と、それでも感動的に歌われる。

もちろん今日の歌はそのどちらとも違う。不思議とその歌が、僕に言葉を届けてくれた。


「僕が死のうと思ったのはウミネコが桟橋で鳴いたから」から始まる歌詞は、淡々と風景を描いていく。風景を描いていることで、それはストレートに心象風景を思わせる。

しかし一方で、この歌で歌われるのは我々が「死のうと思う」瞬間として馴染みのある風景そのものでもある。

ここであげられる全てにではなくとも、そのどれかについて「わかる」と思う人がほとんどだろう。


僕はいつも死に近いところに居ると思っている。

それは、生命体としての死が迫っているということではなく、死というものが頭の片隅にいつもいて、生きながらも常に死を感じているということである。

友人が「死んだときのことを考えてものを増やしたくない」と言っていて、深くうなずいた。僕は常に死を考えているから、物を持つことに抵抗がある。

先日は親が自分達の墓についての話をしてきたが、僕はナチュラルに自分自身の墓として連想した。


2~3日に1回は死が接近してきて、その存在感を増す。ある種の心気妄想なのだろうか。「死ぬかも」に近い感覚が訪れる。

そんなことが日常茶飯なので、この歌の言葉に「わかる~あるあるだよね」とうなずくのである。

むしろ、こんな当たり前のことを歌にするなんて、とも思うし、こんな風景に出会わない人もいるんだろうな、と想像するのである。


生存の危機の中にある人はもちろん、生存の危機に接していない人の中にも、常に死が共にある人はけっこういるものである。

そうして、宗教や科学が発達してきた。死の存在を常に感じている人達が、その死の存在を見つめ、理由を探し、解決を模索してきた。その過程こそが、人類の大いなる遺産となっている。


こんな当たり前のことが語られた歌が、どうして言葉を我に与えたもうたのか。


吉村ジョナサン(Yoshimura Jonathan)/1984年山形県生まれ。山形大学教育学部、東京福祉大学心理学部を卒業。高校教師を13年務めた後、不登校専門塾や通信制高校、日本語学校、少年院などで働く。2024年に株式会社智秀館を設立。通信制大学生支援と日本の古典文学専門塾の運営を行う。また、作家・マルチアーティストとして文筆や表現活動を行う。


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吉村ジョナサン(作家)
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