歴史と経済61〜日本学術会議〜
日本学術会議で大学入試改革と歴史教育に関するシンポジウムが開催された。
学習指導要領が改訂されても、現場の動きがすぐに変わるわけではない。
しかし、大学入試が変われば、高校の授業のあり方から定期考査に至るまで一気に変わる可能性は出てくる。
高校は生徒を上級学校や社会へと送り出す立場にある。
きれいごとではなく、生徒に力をつけ、自己の力で道筋を切り開く支援に力を尽くすことを強いられる。
保護者の多くも大学に進むことができるのか、あるいは無事就職できるのかが関心の的である。
しかし、高校現場がこの期待に応えるのは容易ではない。
歴史教育は生徒の社会認識の形成を図り、社会的な見方・考え方を活用して社会の構造を捉え、市民的資質を育成する。
歴史を通じて大きな時空間における概念や文脈を知ることで、社会の見方を深め、多様な人々のあり方を知ることができるだろう。
過去の人の考え方を資料から読み取り、現在の自分とのつながりを見出した時、歴史に楽しさ見出すことができるだろう。
こんな見方があるのかと、現在や未来についての深い洞察ができるようになってくる。
そして、さまざまな価値観を知ることで自分の価値観を相対化できることも見逃せない。
こうした資質や能力は社会に出たときに役に立つだろうし、大学で学ぶ上でも有効に働くに違いない。
それにも関わらず、これが大学入試の得点に直結しなかったのがこれまでのジレンマとしてあった。
日本史や世界史の入試のイメージはどんなものだろうか。
たくさんの知識が掲載された分厚い問題集を一問一答式に暗記していくイメージではないだろうか。
こうした知識の瞬発力で突破できる入試も実際多い。
限られた時間で大量の問題を解かせたり、重箱の隅をつつくような知識を問う問題も相変わらず見られる。
私大であれば、教授の専門分野のコアな知識が出題され、出題範囲も異様に偏っていることもある。
こうした入試のあり方に対応すべく、教師も生徒も躍起になる。
知識を軽んじているわけではない。
知識は歴史を学ぶ上で不可欠なものである。
一方で、歴史の話を聞いて面白いと感じるのは、単にたくさんの知識がある人の話ではないだろう。
むしろ、一つの知識、一つのテーマであっても多面的な観点から歴史を深く見ることができる人に惹きつけられるのではないだろうか。
大学で必要とされる能力も、決して単発の知識ではないだろう。
論文を書くために自分なりにさまざまな論文にあたり、自分の想定していた答えが見つからず、意外なページから調査が進展していくなんてことはよくある。
時に、別分野にも意識が向くことになり、それが論に深まりを生み出していくのである。
研究は決して、一朝一夕の単発型の知識で進めることはできず、自分で問題を設定し、粘り強く考えたり、別の方法でアプローチするなど持久力や発想の転換が重要な資質となる。
こうした能力が求められているにも関わらず、なぜ大学入試では知識を問う問題が多いのだろうか。
もちろん、多面的に思考させ、論述させる大学もある。
しかし、私大の多くは知識問題に終始し、近年では地歴科の入試自体が行われないケースも増えてきている。
こうなると、歴史を勉強する生徒はますます減り、「歴史離れ」は加速していくことになるだろう。
この一つの原因としては、正確な知識を持たずに大学に入ってくる生徒も多いという現状もある。
これに高校現場は応えていかねばならない。
一方で、学習指導要領が歴史的思考力の育成を謳っているならば、大学入試もその能力を問うてこそインセンティブが働くことも事実である。
生徒たちが受けていて楽しいと感じる歴史の授業があって、それは大学の学びにもつながり、探究力や思考力といったコンピテンシーの習得状況を大学入試で問うべきであろう。
しかし、こうした問題の作成は決して簡単ではない。
単に知識を問うだけでなく、概念ベースで問題を作ろうと思えば、作問者側にもそのような歴史観や問題作成力が確立されている必要がある。
こうなってくると、人材育成の話にもなってしまうが、それでも大学入試に変化が見られれば高校現場の授業は変化するだろうし、もっと言えばそこにつながる中学校や小学校にも決して影響がないとは言えない。
このような大きな変革は、生徒にも教師にもこれまで以上に大きな力が求められることになる。
それでも、概念ベースの深い思考力を持った生徒の問題解決力はグローバルな社会を生き抜く強さを持つにつながり、取り組む価値は高いと言えるだろう。
この改革が成功するのか、失敗するのか。
日本史を振り返れば、常に外圧とチャレンジの連続があって、今がある。
社会形成の根本を支える教育の分野においてためらうことなく、関係機関が手を取り合い、一体となってこの改革に取り組んでいかねばならないのではないだろうか。