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それは40歳、管理職になって2年目の人間ドック。乳がん検診については初めての受診。あ〜もうこんな年齢になってしまった…

そんな安易な気持ちでしかありませんでした。

そして、いざ受診。

マンモグラフィーかエコーか、確か事前にどちらか選べたような・・私が選んだのはエコー。マンモは痛い、というイメージがあったから。

エコーは、胸一面に生あたたかいジェルを塗ってから機械を当て、画面に映し出します。

当然ですが、何が映っているのか説明してくれるわけでもなく、”結果は後日郵送します”、とだけ伝えられました。

ただ、「万が一少しでも疑いがあれば、再検査と書かかれたピンクの用紙が届くので、必ず再受診してくださいね」

と言われた看護士さんの最後のひと言が、何となくではありますが、ひっかかるものがあったのをうっすら記憶しています。

そして2週間後…検診センターからの封書。

悪いようには考えていなかったので、まだかまだかと結果を待っていたわけではありません。あ、届いたか・・みたいな、軽い気持ちで封を開けました。

しかし、開けた瞬間

あの時看護士さんに言われた、ピンク色の紙が入っているのがすぐ分かりました。

え〜!!まさか・・

何度も見直しましたが「要再検査」の文字が大きく印字されていました。しかし、その時もまだ、きっと何かが映っただけに違いない、と深く考えないようにしました。

それよりも、再検査を受けるためには、仕事を休まなければいけない事の方が、私にとっては大きな負担でした。

今から十数年前は、乳がんというものがこれほど世の中に認知されておらず、自分の周りにもそのような人がいるわけでもありません。

”癌”というくくりの中で、”癌=死”が頭によぎったのは確かです。それにしてもなぜ、私が???

今までインフルエンザにかかったこともなく、体調不良で休むなんて、学生のころから記憶にないくらい健康には自信がありました。

それは、健康なからだで産んでくれ、料理もおやつもすべて手作りで育ててくれた母親のお陰だと、常に感謝していました。

ピンクの紙に向かって、なぜ、なぜ、を心のなかで繰り返していました。


ここで少し、今までの人生について振り返ることにします。私は1967年三姉妹の長女として産まれました。

幼少期のころから、積極的にお友達を作ったり、仲間に入れて、と自分から輪に入ったりするのは苦手な女の子でした。

母親は専業主婦でしたので、家事は完璧にこなし、毎日、規則正しい生活を送っていました。

そのおかげで、幼少期の頃から体調不良で学校を休んだ記憶はほとんどありません。しいて言うなら、おたふくかぜや水ぼうそうなどの感染病くらいです。

私の56年間の人生のターニングポイントを時系列に並べてみました。

15才 
 父親急死 
 夜中脳卒中で倒れ翌朝には意識戻らず
 
18才  
 高校卒業・金融機関就職
 実はピアノが大好きで音大に行きたかったけれど父の死により進学断念

21才  
 結婚
 父親の死から長女としての責任を強く感じており、そのプレッシャーもあ り早く結婚して家を出たかった

24才  
 長男誕生
 現在32才 会社組織に馴染めず 
 フリーランス

28才  
 長女誕生
 現在28才 看護士

31才  
 離婚 
 ひと言でいえばすべてにおいて価値観の違い、楽天的な私が雑すぎて彼を追いつめてしまった。 
 離婚1年後に自死
     
38才  
 管理職昇格
 プレッシャーとストレスが増大
 休日はほぼ家に引きこもり

40才  
 人間ドッグにて右乳癌発覚 
 ステージ1期5ミリの腫瘍 
 部分切除 仕事1ヶ月休職

46才  
 今度は左乳癌発覚 
 ステージ1期7ミリの腫瘍手術 
 部分切除+放射線治療

47才  
 自己都合退職 
 人生を見つめ直し、自分の手で人の役に立つ仕事がしたかった
 退職と同時に健康&美容サロン開業準備スタート

48才  
 自宅サロンオープン
 準備期間1年、不安はあるが明るい未来を想像する


私の人生において、父親と元夫の死は耐えがたい心の消耗がありました。

「人間の死」

とても身近な存在であった人が急にカチコチに冷たくなってしまったこと。父の死は子供として寂しい想いとこれからの生活の不安。

しかし、元夫の死は離婚後とはいえ、私との生活によって体調を崩し、鬱になり…まさか、そこまで追い込まれていたとは。

追い込まれた、とは夫の言い分で、私が追いつめた、の方が正しい表現かもしれません。

一人の人間を…

私はこの先永遠に、元夫の存在をこころに刻み忘れないことを誓いました。この時点では、この先私自身にも、死を意識する出来事が起こるなんて、毛頭思ってもなかったです。

管理職に昇格した私は、ますます仕事に追われる毎日、そして重圧、ストレス、ひとつしかないからだ、どうにかなりそうでした。

いわゆる、上司と部下の間に挟まれ・・みたいな状況です。

当時は、取引先との懇親会などもたくさんありましたが、それすら、極力断れるものは参加しないようにしていました。

この頃です。

休日には誰とも会いたくない、何も考えたくない、そんな休日の引きこもりが始まりました。

その二年後に乳がんが発覚したのです。


「禁煙」「節酒」「食生活」「運動」「適正体重の維持」の5つの生活習慣に気を付けて生活している人は、そうでない人に比べ、将来がんになる確率は、女性で37%ものリスクが低下するそうです。

特に乳がんについては、閉経後の体重増加は確実にリスクは増加するとのこと。50歳を過ぎたら、美容というより、健康維持のために適正体重を意識すべきだそう。

そして、一体験者として、がんはもちろん、がん以外のあらゆる病気(未病も)においても、目にはみえない、内面の状態が大きく関わっていると思います。

ひとことで言い表すと「人間社会におけるストレス」

当時の私は、その内面の異常から免疫力がさがり、がん細胞に勝てなかったのではないかと思っています。

人間の免疫細胞は、体内のがん細胞を活性化させないために毎日戦っています。毎日発生するがん細胞の数は一日5000個だそうです。

それでも免疫細胞は、できたばかりのがん細胞を攻撃して死滅させます。

私たちのカラダの中では、毎日毎日、「5000勝0敗」の闘いが繰り返されているのですが、それは、免疫細胞が元気にパワフルに働いてくれてこその勝利です。


当時の私は、自己肯定感が低く、何をするにもおどおどしていました。ただし、そのおどおどは、誰にも気づかれないように。上司からも部下からも、信頼の厚い女性管理職を装っていたのです。

40歳、乳がん発覚、それは5ミリという小さい小さい細胞でした。

(小さくても悪性には変わりありませんが)医師の先生方には、超早期発見で本当に良かったと言われました。

もちろん落ち込みましたが、私もそう思うようにして、手術に臨みました。

実は私の場合、その5ミリという細胞が、悪性か良性か、それを判断する病理検査がなかなか出来ませんでした。

というのは、病理検査とは、その細胞の細胞診といわれる液体を、針のようなもので採取して、最終的に悪性かどうかを調べます。

その細胞診を採取するさいに、5ミリという小ささなので、針がその的に正確に刺さり、間違いなくその細胞から採取できているかどうか?

そのような問題が発生したからなのです。

もう17年も前の検査方法なので、今はもっと合理的なものがあるのかもしれませんが…

そこで、先生から提案されたのが、部分麻酔での日帰り手術です。

疑いのある細胞周りを3時間ほどの手術で切り取って病理検査に出す、というものでした。

もう、聞いただけでも恐ろしいー!
震えが止まりませんでした。

でも、的が外れた細胞診を検査して、”良性”と判断されたら??その後のリスクを考えると、了承するしかありませんでした。


いざ、手術当日。

家族にはまだ、今までの経過は何一つ報告していないので、ひとりで病院に向かいました。

手術着に着替え、ベットに横になり、いざ、手術室へ。チラッと目を開けたら、何やら機械がいっぱい装備されていて…

もう、その瞬間からぐっと目を閉じていました。
部分麻酔なので、痛みは感じません。

しかし、焼きついたこげ臭いにおいや、カチカチ手術道具が触れる音は耳に入るので、それはもう恐ろしい時間でした。

今思い出すだけでも、よく一人でがんばったなあと。
ひとりで病院に向かい、手術を受け…

「はい、ごくろうさまでした。気を付けて帰ってくださいね」

手術のあとはそんなあっけないものでした。

手術部屋を出た足はふらふら。
壁にすり寄りながら、とぼとぼと車に戻りました。

私の人生、どうなってるの〜!!
心の中で叫んでいました。

そんなこんなでしたが、病理検査の結果を聞きに、また一人で先生のもとに向かいました。

「残念ですが悪性でした」

もう一ミリも期待はしていませんでしたので、驚きもせず、あとは粛々と手術の説明を聞いていました。

手術は早い方が良いと言われ、その場で日を決めました。


ここまでの経緯は家族にはひと言も話していません。

職場の上司だけには、仕事の引継ぎもあるので、もしかしたら癌かもしれません、と伝えてありました。

しかし、”乳がん”であることは、恥ずかしいという思いが強くて、この時点では言えませんでした。

胃がんや肺がん、大腸がん…とは違う、女性ならではの病気、できれば隠していたい気持ちでした。

人間ドッグでピンクの紙が届き、悪性と判断されるまでに2ヶ月近くかかりました。

いよいよ本当の手術

今回はもちろん部分麻酔ではありません。
全身麻酔で一瞬にして意識を失います。

よくドラマで見るけれど、本当にそうでした。

1,2 と指折り数える間もなかったような気がしています。

あ、手術前に説明がありました。手術前に、何やら何枚もの同意書を書かされました。

細かいことは覚えていませんが、リンパ節転移については詳しく聞かされたので記憶に残っています。

手術中に”センチネルリンパ節生検”を行います。というもの。

乳がんがわきの下のセンチネルリンパ節に転移していないかどうかを手術中に調べるというのです。

万が一転移が発覚すれば、この部分も切除を行うことに同意しますということの説明でした。

リンパ節を切除すると、老廃物の流れが悪くなりひどい浮腫に悩まされる可能性があると聞かされびくびくしました。


いざ、手術です。

部分麻酔で行った日帰り手術の怖さを体験していたので、それほど緊張もなくその時を待ちました。

「では麻酔打ちますね」

と注射針が刺さった瞬間、もう意識は失っていました。

目が覚めた時には、集中治療室にいました。

点滴のチューブでからだを動かすことが出来なかったことと、やはり術後の痛みがおそってきたのが辛かったです。

看護士さんが声をかけてくださって、痛み止めの薬を飲ませてもらい、また眠りに入りました。

翌朝、センチネルリンパ節への転移はなかったと報告をうけ、術後の異常もないとのことで、部屋に戻りました。

チューブは取れていましたが、右乳房がすごく腫れていて重く感じたのを記憶しています。

部屋に戻ってしばらくしたら、看護士さんが来てくれて

「大変でしたね。ショックだと思いますが、早く回復できるようにサポートさせていただきますね」

と、その優しさにがんばろう、と勇気をもらえました。

術後の経過は人それぞれだと思いますが、私の場合は痛みより、麻酔の後遺症がひどく、3、4日は強い頭痛と吐き気におそわれました。

食事も取れず、ゲツゲツしていました。
ちょうど吐き気がおさまりかけたころ、退院の日が決まりました。

乳がんは外科の手術なので、それなりに痛みが治まれば即退院。

家の方がごはんも美味しいし、テレビも好きなチャンネル見られるし、何より落ち着けるし。

あとは腕のリハビリと少しずつ生活を戻していくだけ。

私の場合は、悪性とはいえ、5ミリというおとなしい小さながん細胞だったので、部分摘出の決断をしました。

当時は医師にもそう勧められましたが、今は大きさに関係なく、全摘出手術も多いそうです。


念のため、仕事は1ヶ月ほど休みをいただきました。

40歳で乳がん発覚、日帰り手術と本番の手術を経験しました。

退院後は、”タモキシフェン”という薬を処方されました。

最低でも5年間は飲み続けるホルモン剤です。

乳がんの増殖に関係するエストロゲンという女性ホルモンの作用を抑える治療法です。

仕事はと言うと…

相変わらず、プレッシャーや重圧はますます増える一方。

時間の余裕、気持ちの余裕、そんなものはかけらもありません。

今でこそ大好きなメイクですが、当時の肌は赤みをおびたカサカサ、毛穴はボロボロ、ファンデーションはムラムラ、こんな最悪最低な肌でした。

術後の通院は3ヶ月に一度。

特に異常はなく、5年が経とうとしていました。

私自身も5年過ぎれば大丈夫、という気持ちがあったので、ようやく安心できるかなあっと思っていた矢先!

いつもの検診で。

「今度は左乳房にあやしいものが…」

「???」

「また病理検査した方が良いですね・・」

「???」

えー!!
今度はひだりー???

さすがにそれは想定外!!
まったくの想定外!!
またまた脳みそに”死”がよぎりました。

「癌=死」

この方程式がまた浮かび上がりました。
今度こそ人生のどん底??

人生曲線、またもや急カーブで下降。

このとき46才。

もうさすがに、この先の人生を考え始めました。
人間はいつかは死に直面する。

それなら、思いっきり、自分のすきなように、自由な人生を。

その先というより、「今日」を大切に、「幸せな今日」を一日一日積み上げていくのもありかな、っと。

誰に遠慮するわけでもなく、気を使うわけでもなく、一人の女性として、美しく”今”を輝いていたいなと。

癌とストレス。

ストレスから解放されない限り、私の体内は、どんどん悪いものに占領されそうで怖かった。

退職もありか、、

人生とは? 生きる意味とは? 
”退職”を決断するには、大きな葛藤がありました。

人生を見つめ直すとは言え、生きていくうえで必要なものはやはり生活費。

まだ、子供たちは二人とも学生でしたから、授業料はもちろんのこと、今までと同じ生活を維持できるのか?

安定収入を手放すのですから。

しかし、もし退職するならば、再就職という選択肢はみじんもありませんでした。もうこれ以上組織に依存することはしたくなかった。

どれだけ頑張っても、こころの奥底には、組織に守られているゆるゆるな自分を知っていたから。

病理検査では、また悪性と判断されました。

さすがに二度目の手術は上司には報告しにくかったです。

今度は術後に放射線治療もセットで行うと宣告され、以前よりも長期休むことになるし、復活できる体力や気力があるのかも心配でした。


このとき、勤続30年。

ある意味、よくここまで頑張ってきたなと、自分を少し褒めてあげました。

なかなか決断はできず、手術と放射線治療が無事終わって、とりあえず職場復帰。復帰するも、体力より、モチベーションが維持できなかった。

職場の皆さんは温かく迎え入れてくれましたが、何となく。

何となく一日が過ぎ、何となく一週間が過ぎ、何となく一ヶ月が過ぎ…

何となく仕事をこなす毎日。

無責任に働いていたわけではありませんが、モチベーションが低いとこうも張りのない生活なのかと思い知りました。

休日には誰とも会いたくない、しゃべりたくない、日の当たる場所にも行きたくない、そんな休日引きこもり生活を、もう5、6年は続けていました。


職場と家とのギャップ。
いつからか、ストレス解消に通い始めたエステにどっぷりハマリ・・

いつの間にか、毎週通うようになっていました。
唯一幸せに満たされる時間

エステシシャンの優しい手が、疲れ切った脳を空っぽにしてくれる
貴重な貴重なリセットできる時間。

自分を取り戻す本当に貴重な時間でした。

これが当時の自分の分析結果です。

・自己肯定感が低い
・自信が持てない
・見せかけの自分
・自分軸がない
・誰かに頼っている自分
・家族への愛情より仕事優先

もっと、自分の経験を自信に!
もっと内側に強さがあるはず! 

「自由に使える時間、それって50になったら一番必要なことかも」
そこに気づくことで、全てが変わっていきました。

もう私の心のなかは、スッキリ。

仕事への未練は全くありません。

それより、一日でも早く次のステップに行きたい!そんなワクワクした気分。


47才、3月31日
それまでの人生の半分以上を精一杯費やした時間。

その最後の瞬間。
もうそれは感謝しかありませんでした。

私はこの日を新たな人生のスタートの日とし、まだまだチャレンジし続けることを誓いました。

この時、すでに次の仕事は・・
はい、もう決めていました。

私を、あの引きこもり生活から救ってくれた、魔法の手を持つエステシシャンのように。

自分の手で誰かの辛さや痛みを解放してあげたい!
今までとは180度異なる世界で、今までにはない感動を味わいたい!!

それは、これから私を頼って来てくださるであろう、未来のお客様と一緒に。

40歳で乳がんの告知を受けてから7年。

乳がん=死 の方程式が、乳がん=新たな人生 へと変わり始めた瞬間。

父親と元夫の死、自分はまだ生かしてもらえる

これからは、誰に遠慮することなく、誰に気を使うことなく、誰かに頼ることもなく、何かに拘束されることもなく、自由に生きる。

その自由とは、自分と向き合いながら、作りあげていくこれからの未来。

過去は変えられないけれど、未来と自分は変えられる!

そこには、不安よりワクワクとドキドキに興奮している自分がいました。


勤めていたときは、自分のからだを酷使して働いていました。

決まった時間に出勤し、ほぼ毎日のように残業、いったい、何時間拘束されていたのでしょう。

サラリーマンなら当然のことだと、精一杯働いていました。

その対価が給与として支給される。
ボーナスもある。休日も確保されている。

社会保障の仕組みもできている。退職金制度もあり。

でも、その安定した生活から、どうなるかわからない未知の世界に飛び込んだことで、あらゆるものが見えてきました。

中でも一番は”自由な時間”です。

自由とは、もちろん、自分勝手という意味ではなく、自分で時間をコントロールできるということ。

これは、本当に幸せなことです。

大金を手にしたら、高級車やブランド品を買ったり、毎日エステに通うことも可能。

でも、お金がどれだけあろうとも、その1分1秒は全く別物。
自分次第でポルシェやフェラーリ以上の価値を生むこともできる。

すべて自分が自分でコントロールできるとても貴重な財産といえます。


時代は大きく変わりました。
組織が社員の生涯を守れる時代ではありません。

副業や学び直しという選択肢ができました。


楽しみながら、自分の手で収入を得る。
自分の手で価値を見出す。

それができる時代。

夢や志、美、人間力、あり方、このようなマインドを整えると、あらゆる可能性が生まれます。

私は今、乳がんをきっかけに、健康と美容に目覚め、女性として死ぬまで美しくいたい、と強く思うようになりました。


生命のある限り、どこまで積み上げられるか、チャレンジの毎日です!

そして、私と関わってくださるすべての女性にも、私以上に、健康で美しい自分のための人生を歩む女性へとサポートしたい!

私の積み上げた人生経験を糧にして、充実した時間をもっともっと作っていきたいのです。

価値ある時間を必要としている誰かのために。
在り方、生き方、そして人生をも変えていく。

その充実した内面とともに、健康もダイエットも美肌も、自然に手に入ります。

私がそうでしたから。


チャレンジ精神があれば、楽しんで冒険できます。

これからは、タテ社会よりも、ヨコのつながりを大切に。

一人ではできないことも、みんなでワイワイ騒ぎながら、応援しあいながら。

5年後10年後の夢を膨らませ、ワクワクしながらこれからの人生を一緒に作り上げていきませんか?

長くなりましたが、私は今、”健康と自由と美しさ”を追究しながら自分をもっとも大切に生きる選択をしました。

180度考え方を変えたと言っても過言ではありません。

これが正解かどうかではなく、今、お子さんのためにご主人のために仕事のために、自分のことは後回しにして精一杯生きている女性の皆様の、今の時代のひとつの生き方として参考にしていただければと思っています。

私は現在、リンパマッサージとお肌の若返りサロンとして、女性の健康と美容をサポートするお仕事をしています。

何回か通っていただいて親しくお付き合いさせていただくと、ご家族のことや、お仕事の人間関係、今までの人生で辛かったこと、ストレスに感じていることなど、プライベートのお話を聞かせていただくことが増えます。

その貴重な人生経験には今でこそ、笑って言えることも当時の辛かったお気持ちを察すると”生きる”ということの意味をいつも考えさせられます。


私は、どんな家庭事情よりも学校行事よりも仕事優先、そんな鬼のように働いていました。

キャリアを重ね女性管理職というポジションを任され、ますます仕事に専念していったのです。

その中で任命されたので、それが生きがいでありやりがいだったのです。


今、思うことは、もっと女性の皆さんが周りの目を気にせず、自由に自分らしく生きてほしいな、と。

私は、乳がんを経験したからこそ、仕事のストレスやプレッシャー、人間関係のわずらわしさからの引きこもり人生から脱出できました。

神様が私に与えてくれた、第二の人生です。

この私の経験が、今の時代を生き抜く女性のために、少しでもお役に立てることがあるのなら。

今は二人に一人の割合で発生している乳がんについて、私の体験談をお伝えすることも価値あることかな、と。


いかに人目を気にせず、自分らしく、気持ち良く、生きられるか、私の実体験をふまえ、ほんの少しでもいいから、自分の人生を見つめるきっかけにしてほしい。

乳がんを体験したからこそ、180度考え方を変えて楽に生きられるようになった、今が一番幸せとはっきり言える、「ゆるく美しく自由な生き方」です。

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坂口よしみ🍀強みを知り人間関係を円滑にする思考🍀ISD個性心理学認定講師
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