ウクライナとナショナリズムについて
ウクライナの極右やナショナリズムについて、ソ連側のプロパガンダとも事実とも見分けのつきにくい言説が飛び交っています。確かに極右勢力が全くゼロなわけではないけれど、それを無視することも、過大評価することも不適切です。
それは、それこそが、まさに緩衝国家ウクライナの悲哀だと思うからです。ウクライナと世界が共にそれを乗り越えて、ウクライナが安心して市民的な民主主義国家として独立を保てるようにすることこそ、国際社会のなすべきことではないでしょうか。
地理的に、数百年に渡り繰り返し大国の支配を受けてきたウクライナを、今度こそ極右や排他的ナショナリズムの生じる余地のない平和な場所にすること。それこそが西欧とロシアの間の平和に、世界の平和に繋がる道筋です。
この戦争に関して特に重要なのはこの2つのはずです。
1:第三次世界大戦と核の使用を防ぐこと
2:ウクライナが安心して市民的な民主主義国家として独立を保てるようにすること
この状態で極右や戦争が好きな人たちがウクライナにある程度集まっているとしたら、排他的ナショナリズムも起こっているとしたら、それは緩衝国家としての悲しい現象です。ウクライナだけに特有の現象でもないですし、それは日本が一番よくわかっていると思います。
それを理由に見捨てるのではなく、それに惑わされるのでもなく、それに乗じて自らの排他的ナショナリズムを高揚させるのでもなく、彼らがそこから脱却して、日本の私たちが今しているような安全な暮らしができるように助けるべきです。
ここで恩師の言葉を借りると、ナショナリズムは、相手のナショナリズムもリスペクトできるようなナショナリズムでなくてはなりません。逆に言えば、相手のナショナリズムをリスペクトできないような、排他的なナショナリズムは良くないのです。
だから、私はウクライナを他国の不法な侵略から守ることを支持しますが、ウクライナが他国の領域や他国民を不法に攻撃することは支持しません。
国の独立を侵す戦争に反対しますが、そこでナショナリズムが異様な高揚を見せることは支持しません。
その難しいバランスを、この情報の嵐の中で一人一人が、そして人類が、生き抜く必要があります。日本人のリベラルにとってはナショナリズムへの反感が、右翼にとっては排他的ナショナリズムへの共感が、扱いにくい感情になるのだと思います。
例えばウクライナへの募金が武器に変わることが不安でしたくないならば、難民支援やマイノリティ支援、戦地の動物保護に特化した組織を支援したら良いです。
もしウクライナの占領を避けるためにウクライナに直接募金しても、ウクライナが排他的ナショナリズムの傾向を見せたらそれは止めないといけないでしょう。
そして下手に排他的ナショナリズムを高揚させることだけはしてはいけません。ウクライナについても、それに絡んで日本国内についても。
私自身が、実際にウクライナ侵攻反対デモに出かけたり、ネットの言説を見聞きして、ふるさとの平和や国の独立を願うことと、排他的ナショナリズムとの区別がつきにくいことを痛感しています。
ウクライナ人がただ自分の国に戻り、侵略を防ぐために武器を取って戦うのは、排他的ナショナリズムとは言えません。それは日本人から見るとかなりナショナリスティックな印象があるでしょうが。
逆に、デモの中の一部で、過剰にナショナリスティックに感じられる勢いの強い言葉を聞くこともあり、それについては自分の中できちんと違和感を大事にしています。
最後に、人間は放っておいても戦争を起こしてしまうくらい不器用なので、戦争や核はオススメしません。侵略や紛争を止める方に頑張らないと滅んでしまいかねないような生き物ですから。