新しい高校の選択科目「論理国語」という語の初出は文科省か、出口汪氏の著作か?

文科省の学習指導要領の決定過程で「論理国語(仮称)」が初めて出た時期と出口汪氏の『はじめての論理国語』シリーズの発売時期が非常に近いことに気づいたので、そのことについて検討する。

2022年度からの新しい学習指導要領で、高校の現代文の必修は選択科目として「論理国語」と「文学国語」に変わる。
良い方向性で採用されたなら全く問題ないが、多くの人が批判しているようにその分類で良かったのか。そしてひょっとすると受験対策の国語を高校で教える国語に使うという逆転が起こっている可能性はないのか、という疑問もある。
あらゆる文章や詩歌には論理があり、それをこの2科目に分けることに対する批判がなされてきた。
この「論理国語」「文学国語」という見慣れない語の初出はいつ、どこなのか、そしてそれを科目として決める決定過程はどうだったのか。

ここから先、この記事はひたすら地味に初出がいつで、どういう決定過程があったのかについて検討する。
それが嫌な人は、6)最後に、どっちにしても私は悲しいを読んでから、気になったら戻ってきてもらってもいいかも知れない。
また現在オランダにいる関係で、オンラインで入手可能なもののみ検討する。

【目次】
1)グーグル上の「論理国語」初出
2)グーグル上の「文学国語」初出
3)文科省データの初出
4)検討
5)出口氏の国語について
6)最後に、どっちにしても私は悲しい


1)グーグル上の「論理国語」初出

グーグルで「論理国語」の検索をし、検索する期間を変更して一番古い結果を探していくと、出てくるのは出口汪氏の次の著作に関連するものである。

はじめての論理国語 小2レベル 発売日:2016/3/31 著者:出口 汪
はじめての論理国語 小1レベル 発売日:2016/3/31 著者:出口 汪
はじめての論理国語 小3レベル 発売日:2016/7/20 著者:出口 汪

記載の発売日は実際に店頭に並んだ日と異なり、2016年2月中には発売の予告か、現物を書店で見ることもできた可能性がある。


2)グーグル上の「文学国語」初出
同じくグーグルで「文学国語」の検索をし、検索する期間を変更して一番古い結果を探していくと、

『高校の「現代文」を「実用国語」と「文学国語」の選択制にする意味がわからない』2016/03/23
https://news.allabout.co.jp/articles/d/93306/
東京新聞夕刊の大波小波欄でここのところしばらく、いとうせいこう氏が自作の教科書掲載を拒否しているという問題が取り沙汰されている。
教科書編集者からの修正に応じたくないという、いとう氏の態度の是非を複数の論者が取り上げているのだが、その是非よりも、本日の同欄には書かれていた事実にぎょっとした。引用する。
現在進行中の教育改革によって高校の国語教科書は大きく変わろうとしているのをご存じだろうか。高校二・三年生の「現代文」を「実用国語」と「文学国語」に分け、選択制にするというのだ。そしてセンター試験の後継テストから小説は姿を消す。

この東京新聞の記事をウェブで検索したが見つけられなかったが、他にもこの東京新聞の記事を引用するWebページがあった。
ここから、文学国語の東京新聞とオンラインでの初出は2016/3/23かそれより前であり、同時にその時点では文科省外部に出す情報として「論理国語」ではなく「実用国語」が存在していた可能性がある。

3)文科省データの初出
文科省のデータから辿る。私がオンラインで見つけたデータの中では、中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会国語ワーキンググループ第4回が初出だ。
第一回から資料を辿ると、この第四回は実際の具体的な科目分類について検討する回で、そうして第四回で「論理国語」「文学国語」の両方が初めて出てくる。

教育課程部会 国語ワーキンググループ(第4回)
平成28年2月19日(金曜日) 13時00分~15時00分
配付資料
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/068/siryo/1369033.htm
資料6 高等学校国語科の科目構成について(1369033-6.pdf)
13枚目「高等学校国語科の現行の課題と改訂の方向性(たたき台)」
【論理国語(仮称)】
多様な文章等を、多角的な視点から理解し、自分の考えを論理的に形成して表現する能力を育成する科目
→特に、課題3(主として、創造的・論理的思考力の側面、考えの形成)に対応
【文学国語(仮称)】
小説、随筆、詩歌、脚本等に描かれた人物の心情や情景等を読み味わい、表現の仕方等を評価するとともに、それらを創作する能力を育成する科目
→特に、課題3(主として、感性・情緒の側面、考えの形成)に対応

議事録からも引用する。


https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/068/siryo/1383642.htm
【小林教育課程課課長補佐】
 そのさらに選択科目ということで、その下の4つを示させていただいております。1つが論理国語ということで、多様な文章を多角的な視点から理解して、自分の考えを理論的に思考して表現する能力を育成する科目といたしまして、設定させていただいております。特に前回までの資質・能力の話の中で、3つの側面の中から特に創造的・論理的思考力の側面、考えの形成、主としてそういったものとの対応も考えた科目ということになっております。
 続けて、隣の文学国語でございます。小説、随筆、詩歌、脚本等に描かれた人物の心情や情景等を読み味わい、表現の仕方等を評価するとともに、それらを創作する能力を育成する科目ということで、特に課題の3ですね。思考力・判断力・表現力の部分の対応で、特に3つの側面の中の感性・情緒の側面というところに主として関連が深い科目ということになっております。

この後、2016/03/30の「高等学校国語科の改訂の方向性(素案) 国語総合 【共通必履修科目】」でも同様の図の中で「論理国語(仮称)」と仮称のまま使われている。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/068/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/03/31/1369048_03.pdf


念の為、出口氏の書籍発売後に新学習指導要領に合わせた書籍のタイトル変更がなかったかも検討した。
2016年の4月頃にこのタイトルの書籍について言及している個人ブログがいくつかあるので、おそらく発売時にすでにこのタイトルだったのではないかと思われる。

出口汪先生の新刊が出た! 「出口式 はじめての論理国語」 小1・小2レベル 2016/4/6
http://hapiben.com/2016/02/09/post-229/
出口式はじめての論理国語 2016-04-07
https://ameblo.jp/pierrot10555/entry-12147669955.html


4)検討
ここまでの内容から、

文科省の資料上の初出は2016年2月19日
出口氏の書籍は発売日が2016年3月31日

どういう可能性があるか考えてみる。

1. 偶然、近い時期に別々の人間が「論理国語」という語を作った
2. 文科省側の誰かが、出口氏の書籍に関する情報に何らかの形で接触し、意識的または無意識的に科目名に採用した
3. 出口氏が書籍の発売前に何らかの形で文科省側の情報に接触し、書籍名に採用した

3. については、上記の教育課程部会ワーキンググループは公開のようなので、2月19日の時点で一般人が知り得ない訳ではないが、書籍発売日と比べると無理があるように思われる。
1. についても、可能性がなくはないけれど、出口氏が数十年にわたり受験国語を「論理的に読み解く」ための書籍を出版されてきたこと、対してワーキンググループのそれまでの内容から新しい科目名を「論理国語」とする必然性は薄いことを考えると、出口氏の方が先であったのではないかと考えられる。

アマゾンで「出口汪  論理」のキーワードで書籍名を検索して見れば、同氏がどれだけそのテーマで出版してきているのかすぐわかる。

対するワーキンググループの第1回〜第4回までの内容を、この週末にできるだけ辿ってみて、関連する部分を拾い上げてみるが、そこから「論理国語」という名称が出てくる契機は伺えなかった。

教育課程部会 国語ワーキンググループ(第2回) 議事録
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/068/siryo/1383628.htm
平成27年12月14日(月曜日) 10時00分~12時00分
【小林教育課程課課長補佐】
 まず、資料2でございます。横長の資料でございます。
 前回、国語科で育成すべき資質・能力を考えるためには、各学校段階、小・中・高といった学校段階におけるゴールを明確にする必要があるという意見を頂いたところでございます。そういったこともございまして、今回、資料2の国語科で育成すべき資質・能力を考えるに当たっての各学校段階における卒業時の姿、検討のたたき台でございますが、作成いたしました
 この資料は、一番左に現行の学習指導要領、小・中・高の目標を掲載しておりまして、あと、3つの側面という部分で、国語力の答申にありました知的活動、感性・情緒、コミュニケーションといったものに沿いまして、児童生徒が何ができるようになるかということを小・中・高ごとに具体的に例示したものでございます。
 その感性・情緒の部分でございますが、前回の意見でも言語文化や古典の重要性といった意見もございましたので、2つに分けて記載ということにしております。
 今回、例えば、「知的活動の側面」ということで、小学校の部分をごらんいただきますと、「例えば、身近な問題について、必要な本や情報を選び、集めた情報を比較・関係付けて理解し、理由や事例を挙げながら、自分の考えを筋道立てて表現することができる」ということで、中学校ですと、「例えば、社会に関わる問題について、本や新聞、インターネットなどから必要な情報を収集し、それらを整理・関係付ながら、適切な根拠を示した上で自分の考えを論理的に表現することができる」と。あとは、高等学校ですと、「例えば、社会問題や文化・思想などの課題について、新書や新聞社説などから必要な情報を収集し、整理・解釈しながら得られた知見を体系的にまとめ、論拠の妥当性を吟味しながら、具体的かつ効果的に短い論文を書くことができる」というように、学校種ごとにこういったものを卒業時の姿という、あくまでイメージということで作成したものでございます。


教育課程部会 国語ワーキンググループ(第3回) 議事録
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/068/siryo/1383636.htm
平成28年1月19日(火曜日) 10時00分~12時00分
【大杉教育課程企画室長】
今後の社会においては、子供たちが情報を主体的に収集等しながら、様々な課題に必要な解決を図っていく。そのために情報に関わる資質・能力というものは極めて重要になってくるという観点
【小林教育課程課課長補佐】
前回三つの柱で議論いただいたところですが、今回資料1につきましては、特に思考力・判断力・表現力等の部分で三つの側面という部分で整理をし直させていただきました。創造的思考とそれを支える論理的思考の側面、また、感性・情緒の側面、また、他者とのコミュニケーションの側面ということで、テクスト・情報を理解する力、文章や発話により表現する力ということをその三つの側面に分けた

第四回で、次のような指摘もあったのでここに引用しておく。

【横山委員】
専門が幼児教育ですので、的外れなことを申し上げたら申し訳ないです。1つ今、この国文学と国語というあたりで思っていたところは、文章のジャンルで活動形態が決まっているような気がして、論理的な思考を養うのは論理的な文章、論説文でということなのですけれども、例えば古典的なものとか、漢文などから論理の思考というのは養われないのだろうか。震災等があったときに、この地域の昔の古文書を見てみると、どういう対策を取ってきたかということも出てきていたりもしているので、そういった古典的な文章も、実は論理的な思考に生かしていくことができるのではないかというのが、門外漢ながら思ったところです。


5)出口氏の国語について
ここで一つおさえておくと、出口氏の著作は受験国語対策として本当に実用的で効果的なものだ。だからこそ売れてきたし、私自身も高校3年の受験直前期に1冊買ってお世話になった。
新しい学習指導要領や共通テストの国語の課題を決める過程で、作成者側がどれだけ出口氏の国語を意識していたか、それともただうっかり「論理国語」の語を採用しただけなのか、その辺りはわからない。

だが共通テストでは従来あったより難易度の高い抽象的な語彙や、そうした語彙の入ってくる文章が減り、より平易な論説文が確実に増え、出口氏の本をこなしていれば解くのは簡単になるのではないかと思う。
そして「論理国語」と命名した背景として、出口氏の「現代文は論理の教科」という思考を意図的または無意識的に採用してはいないか。

「現代文」が「論理国語」「文学国語」に!文学離れは本当に起きるのか【出口式「論理エンジン」の考え方】 2020-01-16 出口 汪
https://valed.press/_ct/17332736
私は四十年前にすでに現代文を論理の教科と位置づけ、子どもたちの論理力を鍛える講義を実践してきました。そういった意味では、現代文が「論理国語」と「文学国語」に分かれたということは、文学以外の国語はすべて論理的な力を鍛えるものであることが国の方針として決定されたということで、私から言わせれば、ここに至るまで四十年かかったわけです。

さらに、「論理国語」「文学国語」の分類が出口氏の著作や思考によるものだとは思われないし、その問題点について出口氏も書かれているので引用しておく。

ですが、そこに問題がないわけではありません。一つは、「論理国語」が必須ではなく、「文学国語」との選択になったこと。もちろん選択科目を複数履修することも可能ですが、大方の高校では「論理国語」しか履修しないのではないかと推測され、そのため国語から文学が消えるといった批判が巻き起こったのです。

私は高校生にとっては、どちらも大切だと考えます。「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」と国語を四つに分割することは、それぞれの科目の役割が明確になり、従来の曖昧さを排除できるのではないでしょうか。その上で「論理国語」を四単位として、国語教育の中核に置き、他の科目をそれぞれ二単位にします。なぜなら論理力を修得しない限り、文学作品や古文、漢文の読解、鑑賞も、国語表現も大した効果が期待できないからです。
(中略)
たしかに子どもたちの読解力の低下ははなはだしく、契約書、説明書を理解できない子どもたちが増えている現状を考えると、実用的な文章の読解力を養成することは必要です。しかし、これらの国語力はすでに小学校、中学校の新学習要領で実践されていることであり、実際公立高校の入試問題のほとんどが実用的な文章の問題を出題しています。こうした読解力は中学生までで十分で、高校生はやはり思考力を養成するような、深い内容の文章の読解でいいのではないでしょうか。


6)最後に、どっちにしても私は悲しい

「論理国語」の論理が一体何を指すのか?ここまでの共通テストの現代文の問題を見ていると、次のような文章が多い。
・文学性の高そうな文章や、多くの人が日常使わないような抽象性の高い語彙を使用した文章ではなく、
・論理構成が明確で、それを意識して読めば読みやすい
・小論文の模範解答のような論説文や、実務的なコミュニケーションで使いやすい明快な文章

こうした論説文はいわゆる論理学の論理とかは関係なく、語彙が平易で、展開も比較的平易であるということで、ここでの論理とはおそらくその文の展開や構成を把握することである。文の論理的な展開、ということになる。

何で私が悲しいかというと、そういう意味での論理は結局、果てしない海に人が引いてみた線に過ぎない。それを日本語であり国語であるというなら、寂しすぎるからだ。
論説・随筆・小説・詩歌・古典というジャンルに関係なく、いやそれが文字になっているか現実のコミュニケーションかにも関係なく、そういう意味での論理はあって、それを探し当てることでその作品の本当の世界にたどり着く補助線になる。その作業を学校ですることに異論はない。そうした作業で子供たちを助けることすらしない今の国語が嫌だ。
でもそれは、補助線引きは、言語そのものではない。それはもっともっと嫌だ。

私はその補助線を引くためのレッスンが得意だ。受験指導で、それで点数が上がっていく子を何人も見てきた。でも同時に、補助線だけでなくその作品の世界観、コンテキスト、それを読むその子との関係、その子にとってのその作品、そういう部分を無視すると読むのがただのつまらない作業になるし、受験で点数を上げるのにも限界がある。だからできるだけ世界を広げて、いつもその子がスッキリするまで出来るだけとことんやる(どちらかというと好きなのはこの部分)。

私自身が高校の時、そうした補助線からはみ出した世界のことを話したり知ったりしたくてうずうずしていたけれど、そういうチャンスが十分ないまま受験を終えた。全然意味の分からない文章も、その構造や展開を把握することで記述式の回答を作り、国語の成績は良かった方だ。
そういう私のような人間がセンターでも東大前期試験でも国語で十分な点数を取ってきたことに、そして今でもそうなんだろうなということに、悲しくて仕方ない。そういう技を身につけただけの人間がエリートになっていいのか?ひょっとしたらそれ以外の知的渇望すらない人が大学に行く寂しさとは何か。

東大在学中に、文科省に入ればそういう教育を変えられるのだろうか、という気持ちもあり、官僚を目指してみたり、省庁訪問をしたりなどした。でもそこで見たものは、今回の学習指導要領の政策決定過程を砂を食べるような気持ちで読んだのと同じものだった。

もうそういう言語教育は終わりにしてほしい。そして論理国語がさらにそれを強化するような科目になるのならまっぴらだ。

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