わからない
大学の恩師の言葉だ。当時大学で写真を学んでいた僕にとって大辻清司氏は、宇宙人的で規定外でまるで別の世界にいらっしゃるように神々しく、氏の沈黙にすら意味を探していた。写真という世界の入り口で小さく身をかがめ、注意深く僕らの足元の少し先を照らしながら、言葉少なく導く妖精のような方だった。実際、師にお会いしていなければ今ある僕はない。月に一度の金曜日の講堂で、まるで秘密を打ち明けるかのようにそっと話されるその一語一句を、拾い集めるように必死でメモをとった。そして一年を通じてゆっくりと『自分の心で美しいと思うことの大切さ』を僕らは学び、写真に恋をした。幸福な時間だった。
今でも大切にしまっている講義ノートにこう記している。
そんなことこれまで誰が教えてくれたろう。衝撃だった。そのメモに纏わるエピソードが忘れられない。
ふと静かに仰った。心臓の高鳴りをを抑えきれなかった。講義の内容は『写真を撮る理由』だった。
沈黙。
師は当時(1990年〜1995年頃)、毎月、電車を乗り継ぎ、飛行機に乗って、福岡とご自宅の代々木上原を往復しながら教壇に立たれていた。
ある日いつものように大学での講義を終え、長い道のりの帰途の登ればご自宅という最後の坂が、散りはじめの桜の花弁で埋めつくされていた。いつもなら移動の疲れで家でゆっくり休むところを、自宅に戻るやいなやカメラにカラーフィルムを装填し、気がつくと坂に戻り桜を写真に納めていたという。
当時、師は70歳を超えておられた。おそらく40年近い『わからなさ』だったと想像する。それも『花を写真に撮る理由』という一生で一度も疑問すら持たないであろう問いについてだ。感服でしかない。無理してわかろうとせず『わからなさ』を受け入れて、一緒に携えて生きていく。そしていつか、明確に分かるのではなく、染みるようにわかる。強烈なリアリティがそこにはある気がする。
あれから30年。僕はいまだにわからないものだらけだ。そして今日も師の言葉を胸に『わからなさ』について考えを巡らせていく。
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