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徳川将軍家は何を食べていたの?

本企画は昭和女子大学の学生有志と吉川弘文館との連携プロジェクトです。「家からみる江戸大名」シリーズの刊行によせて、学生視点での歴史の面白さを『本郷』誌上で発信しています!
ここでは、シリーズ第1弾『徳川将軍家 総論編』にあたり、本誌167号に収まりきらなかった内容を掲載します。是非、お楽しみください。

 みなさんは「徳川将軍家の食事」と聞いたらどのようなものを思い浮かべますか?

 長期にわたって政権を維持し、庶民文化も栄えた江戸時代。豪華絢爛な食事を想像する人も多いと思います。
 将軍は食事の多くを江戸城でしており、そこは政治的空間であるとともに、生活的空間でした。政治と密に関わることもあり、貴重な食品が献上されるものの、意外にも普段の将軍の食事は質素なものでした。

 健康に直接影響する食事は、医療が発展していない近世では尚更重視されていました。野口朋隆著『徳川将軍家 総論編』には「若年寄の重要な役割として、家光の食事を管理する、ということがある」と記されています。
 『江戸幕府日記』によれば、寛永14年(1637年)9月6日の頃、胡椒を御膳に振り撒く粗相で老中(土井大炊頭、酒井讃岐守、松平伊豆守、阿部豊後守、堀田加賀守)の預かりとなり、寛永17年3月8日頃、台所衆が砂糖と塩を間違え、同年10月28日頃、この件について家光自らが注意をするよう命じています。将軍自らも食事を担う者も細心の注意が必要とされました。

 やや時代が離れますが、11代家斉の献立を写した『調理叢書』(所蔵:国文研)を分析した大口勇次郎氏によれば、月9日程は歴代将軍の月命日には精進仕立て、日頃の食事は一汁三菜に香の物と、制限があり質素なものでした。約200名が食事に従事し、公的な食事を用意する「御台所」、将軍個人の食事を担当する「御膳所」、調理のための食材を確保する「御賄所」、大奥での食事を担当する「大奥・広敷間」の四つにわかれています。
 江戸時代後期から幕末にかけては当時将軍が食べてはいけないものが定められています。例えば、ねぎ、にら、にんにく、らっきょう、わかめ、ひじき、さんま、いわし、さめ、ふぐ、なまず、ふな、かき、赤貝。肉類も雁、鴨、兎のみを使用すると定められていました。また、食事が将軍に届くまでもしきたりがあり、御膳所で作られた料理は大奥へと運ばれ毒見をします。その上で将軍の食事処に運ばれ、将軍と相伴役の小姓二人の計三人分の膳が用意されます。小姓2人は座敷の隅で先に箸をつけ、将軍の量や速度に合わせて食事をしていました。

 具体的な描写から少し、将軍家の食事について想像できたでしょうか。時代を経るごとに多くの箇所に分けられ、職名が記載されていますが、初期から将軍の食事が重視されていたことは間違いありません。四季折々の様々な食材が用いられていたものの、一汁三菜などは普段の私たちの食生活に近く、健康を守るため、ひいては徳川将軍家を長期存続させるための1つの定めだったのでしょう。

【参考文献】
大口勇次郎「将軍のお膳には何がのっていた? 江戸城の台所」『東京人』22-2(通号236)、2007年
渡辺 実『日本食生活史』吉川弘文館、2007年
野口朋隆『徳川将軍家 総論編』吉川弘文館、2023年
原田信男『江戸の食生活』岩波書店、2003年

作成者:河合・佐藤・山本


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