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橋渡しする刀剣 酒井元樹
博物館の企画展などで公開されることが多く、その美しさで多くの人を魅了する名物刀剣。それは『享保名物帳』と呼ばれる資料に掲載されている名のある刀剣を指すそうですが、実物の高い評価とは裏腹に、この資料には分からないことが多いとのこと。
『名物刀剣』の著者が『享保名物帳』を武器・美・権威の3点に注目しながら読み解き、名物刀剣を研究する醍醐味を紹介します。
日本刀には「名物刀剣」というものがある。これは、研究者によって多少の違いがあるものの、「『享保名物帳』(以降は『名物帳』と呼ぶ)という資料に掲載されている、名のある刀剣」を指す。例えば、「石田正宗」という名物刀剣は、石田三成が所持し、鎌倉時代の相模国の刀工である正宗が制作したものであるためこの名がある。『名物帳』は、平安時代から南北朝時代ごろの刀工による、名のある刀剣を二百数十口収録し、それぞれの刀剣について、刃長(刃わたり)・銘の有無・当時の所有者・名の由来・伝来などを解説する。
現在、名物刀剣は、展覧会などで比較的公開されることが多く、その美しさで多くの人々を魅了している。また、国宝に指定されている刀剣類一二二件のうち、約二〇パーセント(二六口)が名物刀剣であることから、現代においても名物刀剣は、文字どおり「名刀」と認識されていると言える。
しかし、実物の高い評価とは裏腹に、『名物帳』には分からないことが多い。この資料は、享保四年(一七一九)に、江戸幕府第八代将軍の徳川吉宗の命で、本阿弥家が編纂したと伝える。同家は当時、刀剣の研磨と鑑定を行い、「折紙」という鑑定書を発行していた。しかし、幕府に提出した原本は確認されておらず、吉宗の命や、提出したことを裏付ける記録類もない。さらには、構成や収録刀剣などに従って分類すると、『名物帳』は三種類に分かれてしまい、なぜ三種が存在するのかもよく分かっていない。その一方、個々の刀剣に関する記事は正確なことが知られ、現存する名物刀剣の、実際の特徴(刃長や銘の有無)や、伝来などを検証していくと、記事と一致することが多い。このような訳で、『享保名物帳』という資料は、収録する刀剣の情報については正確なのだが、資料自体のこととなると、成立した時期や編者、あるいは複数のタイプの意味など、書誌としての基本的な情報にあまりにも謎が多いのである。
これらの点に問題意識を持ち、筆者なりの見解を記したのが『名物刀剣―武器・美・権威―』(歴史文化ライブラリー597)である。拙著では、なぜ、名物刀剣が生まれたのか、そしていつどのような経緯で『名物帳』が誕生したのか、そして謎の多いこの資料が、わが国の文化史においてどのような意味を持つのか、このような問いについて、「武器」「美」「権威」の三点に注目して考えを巡らせた。
本書の特徴は、『名物帳』の分析はもちろんだが、仏教美術、有識故実、刀装、茶の湯道具など、名物刀剣の歴史と無関係に見える項目が多数登場する点だろう。このような複数の学問領域が関係する研究を学際的研究と呼ぶが、この方針で理解を深める際は、他分野の成果に対して慎重に向き合う必要がある。拙著の執筆においても、可能な限りこの点に配慮したつもりだ。また、研究に取り組むにあたっては、自分の側にも「考える軸」のようなものが必要となる。そうでないと、未知の情報と出会った時、納得できる場合は良いのだが、そうでない場合は自分の中で折り合いを付けられなくなってしまう。
筆者の考える軸は、「実物からの観察結果」である。美術史の研究方法には、対象を観察し、それを言語化して理解を深める「ディスクリプション」という手法がある。研究の方法としてはオーソドックスなやり方だが、筆者はここから得られた知見に何度も助けられてきた。
例えば、『名物帳』には、『名物扣』という、幕府に提出した帳の草稿と思われるものがある。これは、島根県の和鋼博物館に保管され、原本は一八世紀の始めに成立し、その後わずかな追記を経て、全体を同世紀後半以後に筆写したものと考えられる。草稿のため雑然とした内容だが、『名物帳』の成立に関わる重要な資料であったため、拙著では「A類」と名付け詳細な分析をおこなっている。ただ、A類の『名物帳』は、原本がないばかりか、写本も和鋼博物館に保管される一冊だけであったため、研究当初は資料として紹介するには躊躇された。しかし、次のような記事に接するにつれて、書誌学について門外漢の筆者でも、何とか理解できるようになっていった。
『名物扣』55丁ウ(必要に応じて一部改行を加えている)
江雪(左文字)
二尺五寸九分 刀樋 丸ムネ 鋒中小ノ間 少スリ上 メイサシウラ
ナカコサキニ筑州住 少間アリテ左
権現様御所持 紀伊大納言殿御幼少ノ時 直ニ被進 キレ物ナリ
元禄二己六ノ十七 光澄物語ナリ
これは、現在、広島・ふくやま美術館が所蔵する「江雪左文字」という刀剣(国宝)の記事である。安土桃山時代の板部岡江雪が所持した、南北朝時代の筑前鍛冶・左文字の刀剣であるため、このように呼ばれている。「江雪左文字」は、A類を推敲して幕府に提出したと考えられる『名物帳』(B類)には見られず、幕末に本阿弥家で再編集したと思われる『名物帳』(C類)にも本文中には登場しない。しかし、元禄二年に本阿弥光澄が、「江雪左文字」が徳川家康から頼宣に進呈されたことを語った旨を記しているとおり、確かにこの刀剣は、紀州徳川家に長く伝来した。
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筆者が興味深く思ったのは前半の刀剣の特徴を記した部分で、刃長などが一致している点も大事だが、それ以上に、棟(刃の反対側)が丸いと指摘し、刀身の柄(茎)の銘が「筑州住」、少し間を空けて「左」と、配置を交えて説明している点だ。実際の作品を見てもこれらの特徴は確認できるのだが、そもそも左文字の長寸の刀剣には、後世に同工の作として鑑定された無銘のものが圧倒的に多い。また、丸棟である点も、当時の刀剣としてはやや珍しい特徴である。よってこの記事には、「江雪左文字」独自の特徴を、最大限に捉えようとしていたことがうかがわれる。
ところで、本阿弥家は、刀剣の鑑定活動のなかで、いつ・誰によって・どのような刀剣が持ち込まれ、いかなる結果を下したかを書き留めた『留帳』という台帳を制作していた。そして、この台帳には、比較的個体差の乏しい日本刀の区別を行うため、刃長や疵といった確認しやすい特徴を記録していた。留帳の記述スタンスは、『名物扣』における「江雪左文字」の記事と共通する。
もちろん、この刀剣の記録は誰でも残せるものではない。まず、日本刀について一定の知識を持ち、なおかつ元禄ごろであれば、この刀剣を実際に見ることができる人物でなければ、記録に残すことは難しかっただろう。筆者は、このような理解を何度か経験することで、『名物扣』が名物刀剣の歴史にとって重要な資料であり、本阿弥家が関係することを思うに至った。
これまでに行ってきた研究では、古記録の分析だけではなく、専門外の作品や情報などと接したとき、背後にある事情や考え方に共感を覚えると、研究が進展することが多かった。そして、その共感は、多くの場合、日本刀などの美術工芸品への観察結果が「橋渡し」をしてくれた。筆者はここに、数百年を経ても人々に何かの示唆を与える文化財の凄みを感じるが、それが妥当か否かは是非拙著を手に取って確認してほしいと思う。
(さかい もとき・東京国立博物館主任研究員)