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和製ジャズ温故知新.再編Vol.15/日本初のダンスバンド.波多野バンドとオーケストラ
戦後15年で和製ジャズの兆しが見える。ここで、もう一度ジャズをそもそも日本に広めていった人間(波多野福太郎)のことを考えてみたい。
文献には日本におけるジャズの先駆は、明治四十五年1912年(出港してから、数日後には、七月三十日、明治天皇が崩御することになり、大正に改元)アメリカ行きの東洋汽船の地洋丸(グリーン船長)に乗り込んだ五人の青年たちにはじまる。波多野福太郎、奥山貞吉、田中平三郎、斉藤左和、高桑慶照、いずれも東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の卒業生だった。
1912年このアメリカ行き(横浜~サンフランシスコ間)の客船(地洋丸)の専属バンドとして波多野福太郎(バイオリン)、奥山貞吉(ビオラ)、田中平三郎(バイオリン)、斉藤佐和(ピアノ)、高桑慶照(チェロ)の5名が乗船するところから始まる。
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リーダーは波多野福太郎である。この波多野福太郎を中心とした波多野バンドは、1918年まで専属バンドとして活動する。
編成は見てみるとピアノ+弦楽四重奏。
当時演奏されていた曲は、船上で演奏する為「オリエンタル・ダンス」「キスメット」「金婚式」などの小品クラシックがほとんどで、ジャズは演奏されていない。しかし、初めてサンフランシスコに上陸し、演奏した時は、器用に舶来の楽器を操る日本人に対して拍手喝采をあびる。
波多野福太郎は18年以後船をおり、弟波多野鑅次郎とともにハタノオーケストラを結成し、帝国ホテルなどで演奏する。 これが日本で初めてのダンスバンドである。
このダンスバンドでは、アメリカ往復期間に持ち帰ったジャズのスコアー、パート譜でフォックス・トロットやワン・ステップ、ラグタイムが演奏される。この波多野福太郎を中心とした無声映画への参加、ダンスホールでの演奏が、日本のジャズの幕を開けることとなる。
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この動きの拠点は横浜を中心とした東京であるが、関東大震災(1923年)を境に拠点は大阪に移る。
海の向こうアメリカでは、1900年コルネット奏者のバディ・ボールデンが
ニューオーリンズで人気を博し 1917年ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初の商業用レコードを発表する。
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このように、アメリカと日本はラグタイムピアノのように、わずかな時間差でジャズが発展していく。
次回Vol.16に続く。