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もう誰も我慢しない トランプ劇場が示す「シン・デモクラシー」の始まり


 アメリカの大統領選挙を巡る混乱、そして、その後の連邦議会襲撃など、元大統領ドナルド・トランプとその仲間たちによる過激な

「トランプ劇場」

によって、大国アメリカは混迷を極めているように見える。

 世界最大の大国であり、かつ民主主義の最大の庇護者であるアメリカという国で、こうした事態が起きていることから、識者たちはこれを

「民主主義の危機だ!」

と捉えているだろうことは容易に想像がつくが、よくよく考えてみると、これはもしかすると

民主主義のバージョンアップ

なのではないか?とも思えてくる。そう、言うなれば

「シン・民主主義」「シン・デモクラシー」

の始まりである。

 この語、もう少し平たく「新民主主義」とでも書けばいいのだが、毛沢東が既に「新民主主義」という語を使っているので、それと誤解されないように、あえてここは「シン・ウヨク」なヨシイエとしては

「シン・デモクラシー」

と呼ぶことにしよう。


 さて、民主主義の何が失われようとしていて、何が新たに生まれようとしているのか、それは比較的シンプルな1点に集約されるだろう。

 それは「もう、誰も我慢なんてしない」ということだ。


 民主主義の根幹は

1) 主権が国民にある

ということにある。これがベースだ。つまり、国民は主権者で、いちばん偉いのだ。意思決定できるのだ、というところに骨格がある。

 ところが、人は多様な意見や考え方を持つから、政治においては、その方向性が全員同じになることはない。だから意見のぶつかり合いが必ず生じて、その意思決定はいったん保留にされる。

 では、どうやってその意思決定を統一するかというと、これが2番めの公式に当たるのだが、

2) 意見は多数決で決める

ということになる。

 つまり、「国民に主権があり、それは多数決で決められる」というのが「旧・民主主義」ということになる。


 今回のトランプ劇場は、大統領選挙がほぼ互角の争いになったところに端を発している。国民に主権があり、トランプ派とバイデン派に分かれたとして、これまでの民主主義であれば、過半数を取ったほうが勝ちであり、負けたほうは

「我慢をする、意見を飲み込む」

ということで民主主義が維持された。(まあ、意見を言う場はたくさんあるし、まったく負けたほうが無視されるわけではないのだが、ぶっちゃけて言えばそうだ)


 ところが、「51対49になった時、51の側の意見は通るが、49の意見が通らないというのは果たして民主的なのか?」という疑問が沸き起こる。

 この問題は実は民主主義の骨幹に関わる大矛盾なので、実は早くからわかっていたのだが、これまでは

「負けたほうが我慢してきた」

ことでなんとか矛を収めてきたのである。

「それが大人だ、それが民主的だ」

と考えられていたからである。


 ところが、トランプ劇場は面白い物語をぶちあげて舞台にかけたのである。

 それは

49の側の意見は、我慢せずに言ってよいのだ!

ということである。

それも民意だ!

と言い放った。これがシン・デモクラシーである。

 このやり方は、いままでの大人の目線で言えば、完全にルール違反である。

 だから、トランプの意見は、「子供っぽく、わがまま」に見える。

 それまでの「旧民主主義」のルールに「そもそも論」でいちゃもんをつけたのだから、大人の世界では大問題となるのは必然である。


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 ここでもし、神様目線での理想論を言えばどうなるだろうか。

 「51の側の意見も、49の側も意見も両立させながら、共同統治してはどうか」

という面白く、かつ恐ろしい発想も可能だ。

 つまり、2人の大統領が登場して、別々の政策を実行して、かつ人々は、好きな方の政策に乗っかって生活することができる、というのはどうだろう。

 これはまさしく理想の政治であるが、それをやると2人が3人になり、3人が4人になるだろう。

 国の政策に対する意見が、2人の対立で済むわけがない。だから、かならず国家はそれぞれバラバラに分裂する。

 いわば戦国時代が再来するわけである。


 世界の文化、文明というやつはすでに恐ろしいほどの戦争と乱世を繰り返して、結論として今の民主主義を作り上げた。それが仮想的な不完全なものであっても、とりあえずそうしよう、ということにした。

 ところが、そこにはずっと少数の側に立った者たちの不満がくすぶり続けてきたわけだから、民主主義は成功してきたと言いながら、実は4割くらいの不満を生み続けた、のかもしれない。

 それが今回、アメリカ大統領線でほぼ5:5になったものだから、一気に問題が表沙汰になってしまった、とも言える。


 さて、アメリカの混乱がどうなるかは別にしても、世界各国で「シン・デモクラシー」が始まっている。

 イギリスはもう我慢しないことを主張して、EUを離脱したし、今のコロナ禍の日本でも「自粛要請に我慢しない」という選択をするものが現れている。

 そりゃあ、大人の対応としては、緊急事態宣言を受けて経済活動を自粛するのが筋かもしれないが、そんなことでは経済的に死んでしまうのだから、

「我慢せず、自分の意見は言わせてもらうし、営業させてもらう」

という人たちが現れても全く不思議ではない。まさしく多数派に従わない少数派が現れているのである。


 ところで、中国では完全なる管理統制の元で、武漢をはじめとする各地で新型コロナウイルスの封じ込めに成功したという。

 これは、「51も49もなく100全部を黙らせる」というやり方だ。

 それが功を奏しているのだから、中国としてはニヤリと笑わざるを得ない。

「ほらみろ、デモクラシーなんて、民主主義なんてダメなんだ」

とほくそ笑んでいる。


 どちらが正しいのか、真実はどこにあるのか。残念ながら今現在では答えはないが、世界最大の国アメリカで何が起きるかで、

「シン・デモクラシー」の誕生

が見られるかもしれないし、カオスに転落するかもしれない。今はまさに、劇場の幕が開いたばかりなのだ。


 EUを離脱したイギリスがどうなるのか。アメリカの混乱がどんな形で収まるのか、日本のウイルス対策は吉か狂か。

 それらは全部、ひとつの時代を示している。

「もう、誰も我慢はしない。言いたいことを言い始める」

ということだ。

 これが、シン・デモクラシーつまり「真の民主主義」につながるのか、それとも戦国時代に逆戻りするのか、


 明日は、どっちだ。


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<秘密の追記>

 実は、49の側の意見を黙らせる方法がひとつある。それは、49の側にも十分なおこぼれをやることだ。いやらしい話だが、民主国家において51対49になっても国家として大きな破綻がなくやってこれた国は、間違いなく49の側にもおぜぜが行き渡るようになっている。

 だから大人のふりができ、我慢ができたのである。

 ところが、21世紀の世界は、富の偏在が顕著になり、今まで黙ってやっていたほうに「分け前」が十分に行き渡らなくなったという事情がある。だから49の側は、我慢をしなくなったのである。

 このことは、ウイルス対策でも同じだ。いやらしい話だが、我慢をせざるを得ない側に十分なお金を行き渡らせることができれば、文句は格段に減り、大人な対応をする人間が激増する。

 つまり、旧民主主義とは「お金の再分配」の問題でもあるのだ。

 シン・デモクラシーを成功させるカギは、たった一つである。それは富の偏在をまんべんなく慣らして、国家財政をまともにすることである。

「金を配れる国家、金をバラまける政府、金を再分配できる経済活動」

が構築できれば、シン・デモクラシーはうまくいくが、それが難しいと戦国時代になり、椅子取りゲームが始まるだろう。



(おわり)




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