【特集】 僕は君たちに価値を配りたい
瀧本哲史さんの講演録「2020年6月30日にまたここで会おう」を読んだ。
わたくしヨシイエさんも活用しているnoteで、期間限定全文公開されているので、ぜひ、よい子の僕たち私たちには読んでほしい。
https://note.com/doourhomework/m/ma4b531c5c2ec
東大の講義、なおかつ、京大で授業を持っておられた瀧本さんの話なので、「難しい、レベルの高い」話なのだろうか?と思うかもしれないが、そんなことは全然なく、関西で言えば関関同立あたりを出ていれば、まあ理解できる平易な内容だと感じた。
東京で言えば早慶MARCHレベル以上であれば、骨子はたやすくのみ込めるであろう。
なぜ、突然ヨシイエがこんな偏差値足切り、学歴フィルターみたいなことを言い出すのか不思議に思われるかもしれないが、この講義録を読んでみて、一番最初に感じたのは、”偏差値高い系学生”に向けての「ノブレス・オブリージュ」そのものだったからである。
ノブレス・オブリージュとは「高貴さに伴う義務」という意味である。今となっては日本の若者の半分ぐらいが大学に進学するようになったので、普通の大学に入学した人たちにはあまり感じないことかもしれないが、少なくとも東大や京大から教員が派遣されていたり、一般的に成績優秀とされている大学の授業ではこの独特の雰囲気がよく醸し出されている。
うら若き18歳のヨシイエが、関西の某大学に入学していくつかの授業で言われたのは
「みなさんはエリートです。もちろん東大や京大など、もっと偏差値が高い大学はいくつもあるかもしれませんが。みなさんは同世代人口で5%や10%以内に入る学力を保証された人材であることには違いありません。4年後にみなさんは社会に出て、どこかの場所できっと、いずれそれぞれの立場で組織を引っ張ってゆく人材になるでしょう。ですから、そうした立場に就く可能性がある人間は、そうした人材としてふさわしい教養と、実行力を持たねばなりません。そのために、みなさんはここで学ぶのです」
ということだった。
もう30年近く前のことなので、まだまだ大学進学率も低く、実際にそうした大学生は、社会全体のリーダーとはならなくとも、小さな組織の長くらいには、なってしまうし、ならざるを得ないような人口比であったことは否めない。
現在の大学生とは少し事情が違うかもしれないが、瀧本氏の弁舌には、あの頃の雰囲気が残っているような気がする。そう
「志を持って、社会を切り開く人材となれ」
ということだ。
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そんなことを書くと、まるで瀧本氏の向いている先が、社会変革や未来の変化を推し進めるような、大上段に振りかぶった”たいそうな話”のように聞こえてしまうかもしれないが、そうではない。
彼が言っていることは、「失業者になって転職した年収300万円の中年のおっさん」とまったく同じであり、その聴衆が「未来ある10代・20代の若者」だけではなく、「30代の転職組年収減サラリーマン」だったとしても、確実に意味があるものなのだ。
ちょっと何を言っているかわからないかもしれないが、これからひとつ証明したいことがある。
それは「東大卒・京大教員瀧本氏」だから彼の話に価値があるのではなく、それを話すのが「年収300万円の誰もしらない中年太りのおっさん」であってもおなじ価値があるのだ、というおっそろしい証明である。
そう。年収300万円の転職組中年とは、わたくしヨシイエ孝太郎のことだ。かっこわらい。
もちろん、現在の私はその状況にあらず、46歳になった今は年収も倍増しているし、どこかの小さな会社の取締役として仕事をしているのだが、少なくとも15年前は、それだけの一介のうらぶれたサラリーマンに過ぎなかった。
ただ、わたくしヨシイエがその後、実際に智恵を絞って必死に考えたり、自分で試してみたことは、結果として瀧本氏が言っていることと全く同じであると気付いた。
そして、それを実行すると、自分をとりまく環境が大きく変化し、セカイは確かに動くのだという確信も得た。
だから、わたし個人は、瀧本氏の言っていることの意味がよくわかるし、それを実際にやれる自信がある。そして、それはみなさんにもできるのだ、という希望をここで提示したい。これから始めるのは、そんなお話である。
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さて、瀧本氏の話がとてもわかりやすくて面白いのには、ひとつの大きな理由がある。それは「具体的な実例」をたくさん挙げながら、それをひとつひとつの理論を形にして見えるものにしているという特徴だ。
イエスキリストが、聴衆を引きつけたのには、彼がたくさん例え話を盛り込んだからだというが、それに少し似ているかもしれない。
聖書といえば、瀧本氏の話の第二檄に「バイブルを否定せよ」という実例が出てくる。いわゆるオンラインサロンやインフルエンサーに騙されるなよ、ということだが、その具体的な理論や防御策については、私も既に書いている。
あるいはここには、「アクションを起こさなければ、一銭も生まれない」話もついでに書いているので、合わせてお読みいただきたい。
また、第三檄には「パラダイムシフト」の話が登場した。コペルニクス的転換のような「パラダイムシフト」がなぜ起きるのか、瀧本氏が説明したのは「老人が死んだから」であった。
不肖ヨシイエも、国学の視点から
https://kotaro-yoshiie.blogspot.com/2017/05/blog-post_31.html
「まだ東京で絶滅してるの?」という話を何度もしている。あなたの未来は、あなたの子孫が絶滅するかどうかにかかっているという驚愕のネタである。絶滅したほうが、学問としても生物としても負けなのだ。
「ニセ預言者たち」の項では、えらい先生であっても派閥を作るために取り込もうとしたり、古い世代の人たちは変化できないという話が紛れ込んでいたが
あたりで私が書いたことも、関わりがある。
第四檄には「アンカリング」の話が出てきたが、これも不動産がらみでヨシイエもすでに書いている。
https://kotaro-yoshiie.blogspot.com/2019/03/blog-post.html
1580万の家と980万の家にはどちらに価値があるか、という話だが裏を知ってしまえば、そんなのは「アホみたいな感覚に過ぎない」ということを証明しているので、こちらも読んでおこう。
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とまあ、だんだんと例を挙げれば挙げるほど、瀧本さんがすごいのか「ヨシイエもすごいぞ」と負けん気を起こしているのかわからなくなってくるので、さすがにそれは恥ずかしいからやめにするが、言いたいことはシンプルだ。
それは、
「瀧本さんが感じ取り、学び、そこから導き出した結論は、地べたを這ってきたほぼ同年代の市井のおっさんにとっても、まったく同じである」
ということである。
彼が賢いから、東大や京大だからそうなのではない。たとえあなたが派遣社員であろうとも、たとえ無職の引きこもりニートであろうとも、
「このセカイで起きていることは全く同じで、きちんと丁寧にそれを見つめれば、出てくる答えは同じなんだ!」
ということである。
だからヨシイエさんは、彼と立場が違っても同じことを、同じようなことを書き続けている。
私は一時期、学校の教師をしていた。そこで、学力や経済力のない、いわゆる困難校と呼ばれる学校の生徒たちとも数多く触れ合ってきた。親が生活保護を受けている生徒や、児童労働に従事させられている生徒だっていた。
彼らの力になるにはどうしたらいいか、彼らが力を得るにはどうしたらいいかが、いつも私の根底にある。
瀧本哲史は、彼のあるべき場所で一生懸命やるべきことをやり、そして今はいない。
私にはまだ、やることがある。誰も知らない市井のこの場所で、未来を変えるために書き続けるのだ。
僕は君たちに価値を配りたい。
2020年6月30日を過ぎた今日、次の一歩を踏み出すのは私たちの番だ。
(了)