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【自己責任の正体01】〜自己責任とは、「ハズレくじ」である〜
「高度経済成長」「バブル」「失われた20年」など、戦後の日本を象徴するようなキーワードはあまたありますが、その中でも昨今いろんな場面で取り沙汰されるようになったことばに「自己責任」というものがあります。
特に、欧米流新自由主義が流行してからは、「成功した者も、失敗した者も、すべて自由なチョイスの結果であって、それはすべて自己責任である」といった文脈で用いられることが多くなりました。
一方で、「その人が経済的に成功するか失敗するかなどは、たぶんに社会や行政の事情によって左右されるのであり、自己責任として個人に負わせて放り出してしまうのは問題である」という言説も多く聞かれるようになりました。
はたしてこの世は、「自己責任」なのか、そうではないのか。
これからの連載で、その真実や正体を明解に紐解いていこうと思います。
さて、いきなり結論をズバッと示してしまうならば、公助論者には気にいらない答えになるかもしれませんが、
A 「自己責任はある。存在する」
ということを述べざるを得ません。ですから、すべて行政や社会が個人の人生において「公的責任を持つべきだ」という論は、誤りだと言えるでしょう。
いや、誤りだ、と明言してしまうと、いろいろと語弊がありますね。より正確には
「行政や社会は、ダメダメであり、あまり当てにならないので、公的責任を持てるほどの社会はまだやってきていない」
というのが真実に近いと思います。ぶっちゃけて言えば、
「まあ、行政や社会は、あてにならないぜ」
ということが結論のひとつなのです。
したがって、「自己責任はある、存在する」というのは、
A’ 「社会や行政があてにならない以上、自己しかやれるものはいない」
という意味も含んでいると考えていただければと思います。
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ところで、わたくしヨシイエさんは、別名義で歴史について調べる仕事をしていますが、公的責任と自己責任というのは、たとえば「戦国時代」を考えればよくわかります。
戦国時代には各地に戦国武将や大名たちがいて、領地を経営したり、戦いをしたり、領地領民と暮らしていたわけですが、さてみなさんは、彼らの領地経営は「自己責任」か「公的責任」か、どちらだと思うでしょうか。
たいていの人は、
「そりゃあ、自分の領地を守り、領民を生活させてゆくのは戦国大名や戦国武将の自己責任であろう」
というイメージを持っていると思われます。
ところがそんな互いにあい争う戦国時代になってしまったのは、ひとことでいえば「朝廷の権威が失墜したり、その代理である室町幕府の将軍の権威が失墜したから」にほかなりません。
つまり、公的責任が責任を果たしていないので、戦国の世がやってきたわけで、本来であれば
「ひのもとの国を安らかに治めるのは、天皇の責任であり、将軍の責任であり、朝廷や幕府の責任であって、戦国武将の自己責任であるのはおかしい、間違っている」
ということになるわけですね。
したがって、本質論で言えば、戦国武将はそれぞれの領地に平和に留まって領国経営をすべきであり、その体制を保証するのは朝廷や幕府でなくてはなりません。それを訴えるのはかまわないし、実際になんどもそうした試みは行われました。
しかし、それがうまくいかず、応仁の乱になったり、戦国時代がやってきてしまったわけです。つまり、公的責任を求めてもいいですが、「それをきちんと運営できない政府や社会であれば、求めても無理」だということが明らかになるわけです。
そうすると、おのずと戦国武将たちは、「自己責任」を追求しはじめる、というわけです。そうせざるを得ない状況が存在するからです。
これは、名も無き庶民も同じで、たとえば年貢を治めるべき戦国武将の領地経営が無茶苦茶であれば、田んぼも畑もほったらかして逃散します。
つまり、自己責任で逃げ出し、好きなように生きてゆくというわけですね。
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というわけで、「政府や社会が弱者を救うべきである」という公的責任論は、ことばの上では心地よいし、一見すると社会的正義のように感じられますが、実は政府や社会にそれを解決する能力がないと、絵に描いた餅のように、最後まで実行力を持ちません。
「逃げちゃだめだ」
と言ってる間は許されているエヴァンゲリオンのシンジくんみたいなもので、最後まで逃げて解決できないというオチが待っているだけかもしれないのです。
そうすると、公的責任と救いを期待している庶民や弱者は、待っている間に死ぬしかありません。戦国時代がなくなり、平和な天下統一がいいなあ!と思っている間に、隣の武将が攻めてきて火だるまになるのがオチというわけですね。
ネットにはいろいろな論客やブロガーなどがいますが、私も含めて
「就職氷河期に社会にほうり出された」
という方がたくさんいます。私はたまたま、ラッキーなことに最初の就職が公務員だったので、就職氷河期を感じることはありませんでしたが、多くの方が、非正規雇用での就職を余儀なくされました。
このことについて、社会や政府では「就職氷河期を経験した人たちをどうにかしなくてはいけない」と言っています。つまり、公的責任でなんとかしなければというわけです。
しかし、実際には非正規雇用を経て、40代、50代を迎えようとしている彼らに、特段の救いの手はありません。そうこうするうちに彼らが60代になり、65歳を迎えると
「就職氷河期という残念な時代があったが、彼らはもう就業年齢を過ぎているので、ただの貧困老人問題がそこにあるだけだ」
ということになります。つまり、未解決のまま、公的責任と言いながら、ほったらかされるわけですね。
それよりも、むしろ今となっては
「コロナ氷河期世代」
という次の問題が生まれてしまっていますから、就職氷河期の方たちよりも、コロナ氷河期を救うほうが、トリアージとしては優先順位が高くなります。
だとしたら、社会情勢がどうあれ、「自己責任」でなんとかして貧困を逃れた動きをした人たちだけが生き残ることになるわけです。
公的責任は存在するけれど、それはあまり実働的に役に立たないのであれば、「自分の責任」で好き勝手に戦うほうが、マシだということになります。
結果として、「自己責任論」を活用したほうが、生き延びるチャンスを得る人たちが増える、という矛盾めいたことが起きてしまうのですね。
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ここまで読んで、
「話の上ではそうかもしれないけれど、なんだかもやもやが残る、すっきりしない。自己責任になってしまうのは仕方ないけれど、それだけではないはずだ」
と感じる人たちも多いことでしょう。もちろん、わたしもそう思います。
「将軍や朝廷がしっかりしていないから戦国時代になっちまったじゃねえか!俺だって信長と戦いたくねえよ」
とも感じます。
そこで、第一回のまとめとして、次の事実を提示したいと思います。それは、
「自己責任になってしまうとは、つまり外れくじを引いたってことだな」
という真実です。そうです。自己責任論の正体は
「俺は、わたしは、外れくじやババを引いてしまった」
ということなのです。
たしかにその札を引かされたけれど、その札を望んで意図して引いたわけではない、という点がミソです。
自己責任と単純にいうと「自分で望んでそのチョイスをしたから、ケツをふかねばならないのは仕方がない」というイメージですが、そうではなく、
「望んでもいないブタ札を引かされたのだから、ケツをふかされるのは納得がいかねえ」
というのが、自己責任論の真の正体だということになるでしょう。
そこで、次回への宿題を残してみます。では、
「外れくじを引いてしまったとして、それはくじの胴元に責任があるのか?」
ということです。自分では望んでいないくじが手元に来たけれど、それは
「胴元の陰謀や、悪い意図であって、責任は胴元にある」
のだろうか、という問の設定です。
あるいは、「一定の確率で外れは必ず存在し、それは胴元の責任ではなく、くじというシステム全体の持つ特性である」ということだったら、いったい責任はどこにあるのでしょう。
胴元?システム?それとも、引いた本人?
一度考えてみてください。
(つづく)