【特集】 僕は君たちに金を配りたい


 経済やビジネス、あるいは資本主義社会についてほんのちょっとでも関心のある人は、このタイトルを見て、何か思い出すものがあるかもしれない。

 そう、この表題は、あきらかなパク・・・いや、オマージュで、元ネタは瀧本哲史さんという方が書いた「僕は君たちに武器を配りたい」という本である。

 瀧本さんは、この世知辛い資本主義を生きぬくため「ゲリラ戦術」で個人が戦うための方法として「武器」ということばを用いた。詳しいことは講談社から出ている同書を読んでいただいてもいいし、そのキモをまとめた読後の感想などもたくさんネットにあるので、そちらを参照してもらえばいいと思う。

 ごくごくツボだけ説明するならば、「コモディティ化」した経済に巻き込まれず、独自の道を探せということになる。

 コモディティ化とはつまり、同じ商品がどこにでもありふれた状態のことで、差別化できずに他社からもおなじモノが売られていることを示す。これを商材においてもそうだし、人材においても同じと見立てて、結論を言えば「替えの利く人材にはなるな」ということにもなるだろう。


 さて、その瀧本哲史さんは、2019年の夏、47歳でこの世を去った。私はあと1年で、彼とおなじ年齢になるから、

 自分はあと1年でどこまでのことを遺せるだろうか

という気持ちで、noteを書いている。

 彼の天才ぶりや、その業績が大きいことは、まったくの他人である私が書くまでもないので、ここにはそうしたことは記さないが、彼が生きていたらもっともっと大人物になっていたことは確かだと思う。


 その彼の遺作のように発売された本がある。

「2020年の6月30日にまたここで会おう」(星海社)

というものすごいタイトルの本だ。これは東大での講義を書籍に編集したものだが、なんといってもその日が昨日で、そして、その日に彼は実際にはこの世にいない、ということがなんともいえない気持ちを引き起こす。

 実は今、この本のキャンペーンで、6月30日から全文を読むことができる。

 彼が何を考え、そして何を願っていたのかを学ぶには、ちょうどよい機会ではないだろうか。

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 武器を配る。その武器とは何か。それは国家や社会や他人に惑わされることなく、自らが「自分で考え、実践してゆくための智恵と実行力」ということになるだろう。

それをわかっていてわたくし「ヨシイエ」は今回、あえて「僕は君たちにカネを配りたい」と書いた。

 経済社会、資本主義社会において、一番即効性のある、いわば本質で本丸は「金」だ。

 であれば武器よりもカネを配ったほうが早い、という仮説は興味深い。裏社会ではどちらも(弾丸も現金も)「タマ」なんて呼ばれたりする。配られるものは、武器であり、カネであるのだ。


 さて、面白いことに、この不肖ヨシイエ、ちっぽけな雇われサラリーマンがいくらカネを配ったところで、できることはしれているのだが、なんと今回コロナ禍のせいで

「国家がすべての人に10万円を配る」

という大珍事が起きてしまった。

 今なら「僕は君たちにカネを配りたい」(安倍 晋三・著)という書籍が売り出せそうなくらいである。

 もちろん、この話については、オプションとしてとある国会議員に1億5千万円も配ってしまった疑惑もあるらしいから、残念ながら書籍は早々にボツになるだろう。

 珍事はまだある。瀧本さんが意図してかどうかは知らないが、そのちょっと前に

「僕は君たちに100万円を配りたい」

という人物もいた。これはツイッターが大いに盛り上がったのを覚えていることだろう。


 ところで、ここで考えてほしいことがある。あるいは、それは実際にこれからこの目で確認できることなのだから、ぜひ楽しみに期待して待っていてほしい。それは

「カネが配られても、セカイは変わらない」

という事実である。100万円配られようが、10万円配られようが、セカイは変わらない。

 それがカネの本質であり、限界である。


 ではなぜ、瀧本さんが言うように「武器」を配れば世界が変わるかもしれないのに、「金」を配っても世界は変わらないのだろうか。

 皮肉屋なら「金を配っても、武器を配っても何も変わらないさ」とうそぶくことだろう。


 しかし、結論から言えば、カネを配ることと武器を配ることには、大きな違いがある。武器ということばが少し話をややこしくしているかもしれないが、正しく訳出するとすれば、「価値」ということばが正確に近いかもしれない。

 資本主義というのは、その本質においてやっていることは「価値の創出」である。これまでになかった製品やサービスを生み出すことで「価値を創出」する。

 しかし、それがありふれてしまってコモディティ化すると「価値が減少」する。だから、資本主義社会においては、つぎつぎに新しい「価値を生み出す」いとなみを行わねばならない。それは一握りの天才や秀才が生み出すのではなく、あちこちで多発的に「わらわら」と生まれてくるほうがよい。そのほうが数の面でも、質の面でも高めあうことができるのだから。

 共産主義が限界を迎えたのは「一握りの指導者」が価値をコントロールしようとしたからであり、それがうまくいかないことは歴史が証明した。

 そしてあちこちから「わらわら」と価値が湧いて出てくるためには、「自由」であり「チャンスが平等」であることが絶対条件である。だから現代の資本主義はそうしたことを守ろうともしている。

 なおかつ、「価値」は増殖する。価値をくっつけたり、改造すると、新たな価値を生み出し、無限に増えることができる。だから文化は発展してきたし、これからも発展すると言えるのだ。

 もちろん「金が金を生む」なんてことも一般に言われるが、実は金が自動的に利息を生んでいるわけではなく、そこに付随する「価値」がありそうだから人々は利息を払うのである。

 だから「金」を配っても何も変わらない。そこに「価値」が増えなければ、社会は変革しないと断言できる。けれど、あなたやわたしが何がしかの「小さな価値」を生み出すことができれば、社会は変革できるし、ついでに(いやらしい話だが)金も増える。


 さあ、じゃあ話がまとまったところで、今回のタイトルを変えようじゃないか。

「僕は君たちに価値を配りたい」

と。 


 

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