【特集】 僕は君たちに智恵を配りたい ~天才とはなにか~
天才とは何か。
そんなことを考えさせられたのが、先日よりnoteに続けて書いている瀧本哲史さんのことである。
瀧本さんは麻布中高を出て、東大法学部を卒業、その後マッキンゼーを経て京大で教え、投資家になる。悲しいことに47歳で亡くなってしまったそうだが、わたしとほんのわずかしか年齢が変わらない。私も、あと1年ほどで47歳を迎えることになる。
同時代を生き、彼に接したことのある人は、ほとんど口を揃えて「瀧本氏は天才、あるいは天才肌であった」と評するようだが、そこでふと疑問に思ったのだ。
天才とは、いったい何なのか。
と。
ざっくり言えば、天才とはその文字の示すとおり、「天から与えられた、並々ならぬ才能」を意味する。その点、努力によって何かを勝ち取ることができたなら、それは「秀才」などと呼ばれて、すこしばかり天才とは比較されることになるのは、ご承知の通りである。
しかし、この「天から与えられたもの」は、時に不穏な偏りを現すことがある。たとえば、「天才とバカは紙一重」と言われるように、何がしかの発達障害のような、アスペルガーのような”特性”が、ただ一つの領域に突出した能力を発揮させるように、普通ではない偏差を示す。
うちの息子が、多少そうした”特性・傾向”を持っているので、私は彼のことを
「ギフテッドのなりそこね」
と呼んで、いつくしんでいるのだが、ギフテッド=天才の道を進むもよし、凡人の中に紛れて生きるもよし、ただ
「そのことで苦しい人生を送らないように」
は、親として並々ならない配慮のもとで育てたいとは思っている。
さて、天才を構成する要素を、ただ列挙するだけなら、簡単である。
◆ 努力を苦と思わない ◆ マイペースでつきすすむ
◆ 一つのことに秀でる ◆ 協調性がないこともある
◆ 独創的ではあるが ◆ 反面、無頓着な部分もある
などなど。まだまだいろいろあるだろうが、挙げれば挙げるほど、「天才」と「発達障害の特性」に共通した部分がどんどん出てきて、いっそう
天才とは何か
がわかりにくくなるかもしれない。ましてや、恐ろしい事に、
「天才だからといって、何かの結果を出すとは限らない」
ことも往々にしてよくある。”神童も大人になればただの人”なんて言葉があるように、京大を出てもニートをしている人もいれば、天才であっても不遇のうちに人生を終える人もいるだろう。
それより何より、
「このセカイには天才がたくさんいるのに、なぜ人類はちっとも幸せになれないのか」
という大問題がずっと残っている。毎年天才がセカイに出現しているのであれば、もう少し人類は平和で幸せになってもいいものだが、そのペースはあまりにも遅いではないか。
そして、瀧本さんではないが、天才だって、いずれは亡くなるのだ。こればかりは、人類みな平等だから不思議である。
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さて、瀧本さんのことを調べていると面白い記事に出会った。
https://forbesjapan.com/articles/detail/29132/1/1/1
フォーブスに載っていた「武井涼子さん」という方が、瀧本さんとの思い出を語ったものだが、彼が弁論部に属していた話や、卒業時の金時計の話が個人的な記憶を呼び戻したのである。
瀧本さんが東大の法学部に属していた時、主席卒業生に対して与えられる金時計は留年していた先輩に譲ったというウラ話が載っていたのだが、似たようなことが私にもあったのを思い出す。
私は関西の某クラッカーに似た名前の大学の文学部を卒業したのだが、うちのゼミからいつも卒論の首席が出るので、いいかげんによそにも回せ、と教授会での裏事情があったらしく、私は2番になって金時計をもらえなかったのである。
二番じゃダメなんですか!
と、もし私がグラビアモデルになったり、国会議員になったりしたらぜひこのネタを使いたいと思うが、そんなスーパーコンピュータも、日本勢が世界一を取り戻したらしい京このごろ。
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金時計はもらえなかったが、卒論を学生論集に載せてもらったので、物書き志望の私としては、それが簡易的にも書物の形になって残るのが嬉しかった記憶がある。
こんな話を書くと、ヨシイエさんはさぞ賢かったのだろうと思われるかもしれないが、私などただのまがいもので、世の中にはもっともっとスゴイ人たちがいることも思い出す。そこで、瀧本さんの弁論部の話が出てくるのである。
弁論というのは、ざっくり言えば「未成年の主張」みたいな壇上から聴衆に向かってしゃべくり倒す弁舌のことだが、実はあれは明治時代の自由民権運動のころからの伝統があって、民主主義の根幹を成す重要な活動だとされている。
言ってみれば、国会の討論もしかり、選挙演説もしかり、大衆に向かって自分の意見を表明し、何がしかの未来に対して、どうしたいのか・どうするのかを明らかにする行為は基本中の近代民主主義の基本とも言えよう。
だから、東大をはじめ、歴史ある学校にはたいてい弁論部があり、各校の天才たちは弁論術を身につけて社会に出てゆくという隠れた伝統がある。今風に言えば「ディベートの訓練をしている」みたいな感じであろうか。
わたくしヨシイエさんは、一時期、高校で国語の教員をしていたので、たまたま弁論大会に出場する生徒の指導をすることになり、あまりにもヨシイエさんが秀才なものだから、生徒3人連れて行って、地区大会で全員入賞させるという快挙を成し遂げた。
そのうちの一人は、全国大会まで行ったから、私はその全国大会の前夜祭で、
「全国各地からやってきた伝統と格式溢れる弁論部の指導をしているえらい国語教員たち」
と飲むはめになってしまったのだ。
そりゃあもう、東京のめちゃんこ偏差値が自由な私立高校の生徒と教師とか、地方の旧制中学から高校になったような伝統校の生徒と教師とかがやってきて、親交を深めるのである。(そして、たいがい、常連のおっさんたちは毎回顔を合わせているので知り合い同士)
そんな中、ど田舎村の偏差値が不自由な学校からやってきた純朴な生徒と、世間のことなど何もしらない大学出たての、痩せていた頃のヨシイエ先生が邂逅するのである。
これを未知との遭遇と呼ばずして、なんと呼ぼうか!
いやまあ、その時「子供っていいなあ」と思ったのは、生徒たちは自分たちの学力や偏差値の違いなどちっとも気にせず、仲良く友達同士になっているシーンに出会えたことで、子供にとっちゃあ、そんなものは関係ないのだと知ることができた。
いっぽう、おっさんたちの方である。これはもう正直に言って、おなじ国語教師でありながら、東京のなんとかいう中高一貫の弁論部の顧問をしている50過ぎのおっさんの言ってることなんぞは、
「ちょ、何言っているかさっぱりわからない」
を3周くらい回っているのだ。
彼らは飲みながら中国の唐代の漢詩の話をしていて、「あの返り点はどうだ」とか「こう読み下したほうがいいんじゃないか」とか、それはもう人間じゃない会話を繰り返しているのである。
ヨシイエさんに理解できたのは、ギリギリ「それが漢詩の話だ」ということだけで、あとはもう、何を言ってるのかまったく理解できない世界が繰り広げられているのである。
「・・・天才っているんだな」
みたいなことを思ったのは、その瞬間だった。
おなじ国語教師であり、おなじ立場で生徒を連れて行っているのに、この壁はなんだ!赤壁の戦いか!それとも進撃の巨人か!ぐらいの壁があった。
いやまあ、瀧本さんたちが、そうした「あっち側の世界」にいたのであれば、そりゃあ彼のおつむは相当に賢いだろう、という目安くらいにはなろうものである。
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ところがである。いざ、今になって瀧本さんの講演録や、書かれた書籍を読んで見ると、あの時感じたような断絶はないし、ふだんヨシイエがブログで書いたり、noteで言ってることと似たようなことが書かれているに過ぎない。ふだん私が感じたり書いたりしていることの多くが、瀧本氏の論説とかぶりまくっている。
こりゃあ、いったい、どうしたわけだろう。
私がかつて感じたような「天才たちとの乖離」は、すっかり消えうせていて、”天才瀧本哲史”が見ているこのセカイも、私がみているこの”セカイ”も全くおなじものであることが実感できる。
実はそこで気付いた。天才とはなにか。天才と凡人とは、何が違うのか。
それは、量とスピードの差
なのだった。
天才はたくさんの知識量を持っている。単純な事項であったり、その流れや仕組みも含めてもっと複雑な事象もかもしれないが、とにかくメモリの容量が大きい。そして、その処理能力が速い。
だから、瀧本さんは、東大を出ていろいろ思索しながらそれを実行に移し、早熟なまでに今度はアウトプットすることができたのだろう。
一方、ほぼおない年のヨシイエさんは、似たような年代を地べたを這いずりながら生活し、もそもそと、だらしない動きをしながらなんとか生き延びてきた。
公務員の世界だけでなく、一般の企業にも勤めて、社会の表や裏もたくさん見てきたことだけは確かだ。
そして、その体験的容量が、いよいよ40代の今頃になって、瀧本さんに追いついたのである。い・ま・ご・ろ!
思い出してみよう。弁論大会の前夜祭で、確かに私は高い壁の向こうにいる教師たちに出会った。彼らの言っている国語の話は、私にはなんのこっちゃさっぱりだったが、実は弁論大会そのもので言えば、うちの生徒は中高一貫の超進学校の生徒と互角であり、結果的にその大会でも入賞した。
漢詩の話ではボロ負けかもしれないが、弁舌の指導であれば、ヨシイエさんだって負けてはいない。いやいや、もしかすると、国語の範囲でもヨシイエさんの専門分野だったら、一太刀浴びせることだってできたかもしれない。
つまりは、私には漢詩の知識量だけが圧倒的に不足していただけということだってありうるわけだ。
よく考えれば当たり前の話で、天才と凡人が見ているセカイが異なるなんてことはないはずだ。セカイは同じで、ひとつなのだから、「よく観察して、じっくり考えれば」それは全くおなじものを見ていて、おなじ結論が出るのが当然である。
だから天才と凡人を分けるのは「量とスピード」に他ならない。たしかに凡人は理解が遅いし、処理も遅い。量もたくさん入れられないので、すぐ忘れてしまったりもする。
瀧本さんのような天才は、自分が実際にその目で見て、体験せずとも、他の情報と組み合わせることでほぼほぼ当たりの推論をはじき出すことができる。
だから若くして相応の結果を出せるのである。
僕たち私たちは、そもそも知っていることの容量が少なく、故に推論機能も弱いから、体験しないと理解できないこともたくさんある。しかし、本質的に、それらはまったく同一の事象である。
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さあ、そろそろまとめに入ろう。これはすごい発見かもしれない。
”天才とは、量とスピードである”
これが真実なら、僕らは天才に追いつける。遅いかもしれないが、行き着くところは同じだ。未来には希望がある。
2番じゃだめなんですか!のスーパーコンピュータ「京」は、世界の首位から陥落したが、2020年になって、スーパーコンピュータ「富岳」が、再び首位を取り戻した。
スーパーコンピュータの能力を上げる方法は、2つだ。一つはクロック周波数を上げること。もう一つは素子の集積量を増やすことだ。
公式には「158,976ノード」搭載とされるが、要するにCPUの数を増やしているわけだ。
周波数のほうは、電子の速度という上限があるから、それほど無茶に速くするわけにはいかないが、素子数、CPUの数なら、理論上無限に増やせる。ほら、スマホだって今やクワッドコア・オクタコアの時代なのだ。
だからこれは、瀧本さんの「2020年6月30日にまた会おう」の講義にもあったが、仲間を作れ、という話に繋がってくる。
僕らは天才には速度で勝てないが、仲間を増やせば、勝てるのだ。
これは確実に、人類の希望である。
知恵とは、個人の能力を磨き上げることではないかもしれない。
もしかすると、今すぐにでも、誰かと協力し、ともに歩き出すことなのかもしれないのである。
(了)