言葉あれこれ#21 推敲
またしても、刺激的な記事に出会ってしまった。
豆島圭さんの「紙・耳・時間・多視点」推敲、という記事。
そういえば、推敲について書いたことがなかった。
以前、みらっちのほうで「やってみた」というマガジンを作った。
マガジンの紹介文にある通り、これは、「LINE公式、WEBサイト、投稿サイト探し、Amazon電子書籍出版、Amazonオンデマンドへの挑戦の記録」をつづった記事だ。この中の、こちらの記事。
この中で私は、最も重要なのは校正作業であり「電子書籍の出版は校正作業が8割」などと電車の広告に書いてあるようなことをしゃらっと書いている。そして「校正作業には読み上げ・音読が有効」という小見出しでは、こんなことを書いていた。
上記にあげたことは「推敲」というより「校正」の段階の話で、「推敲」はこの前段階の話だ。
私は、「推敲」は文章表現をブラッシュアップしたり、時系列や前後関係の整合性を整えたり、人物像を練ったり、文章中の問題点を洗い出したり直したりすること、いわゆる「改善」で、「校正」は言葉や体裁の間違いを直すこと、と認識している。もちろん、推敲の段階で校正レベルの間違いに気づくことも多々あるので、そういう場合はそれも直す。
「推敲」は、原稿を仕上げる前後に味のないガムを噛み続けるような作業で、一応自分なりに「脱稿」となったときに「さあ!」と気合を入れてやるのが「校正」である。
私の場合、自作本づくりの現場ではこんな流れになっている。
上記は用語もなにもかも、あくまで私の場合、としていただけるとありがたい。というのは、商業出版の場合は、おおまかにこうなるからだ。
場合によると思うが、入稿してからもちゃんと印刷できる段階まで校正が入る。プロが入るので安心だ。ただし、編集校正の段階まで行くと、無限大に推敲はできない。ここがプロとアマとの違いといえば違いだ。
そう。アマチュア物書きには、推敲が無限大にできるという「福音」、別名「地獄」があるのである。
公募に出す場合は締め切りがあるから限度があるが、締め切りがなければとにかく無限大なのだ。
そう思う時、私の頭の中では、座右の銘である宮沢賢治の
が鳴り響く。
宮沢賢治は生前はアマチュア物書きであった。今では文豪に列する存在だが、生きている間は商業作家ではなかったのである。現代の人間の心にこんなにも響く物語が、彼自身の生活の糧にはできなかったということが胸を打つし、私には、ある種の励ましにもなっている。
それはさておき。
耳推敲もするが、ものによっては紙推敲もする。
レイアウトは、紙推敲しているからこそ気づく、ということがある。
PDFのペン入れというのもあると思うが、紙は読者になり切れる利点があるように思う。紙に印刷しただけで「なんかすごいの書いたかも」的な気持ちになれるし、一読者の目線で読むことができる。
そもそも推敲については、「無限にする派」と「脱稿したら作品は忘れる派」「寝かせる派」などもいるので、実に人それぞれだと思う。そしてまた、無限にしたところで、失敗や間違いは根絶できない。
豆島さんの記事にもあった「タイポグリセミア現象」もあるし、とにかくプロでも見逃してしまうことがあり完璧が求められながらやはり難しいのが実情ではないかと思う。
私の推敲は「無限にする派」「寝かせる派」「脱稿したら忘れる派」のどれにも全部当てはまる。矛盾しているようだが、寝かせるには忘れないといけない。「いったん忘れて、ある年月寝かせて、また推敲」を繰り返して「無限」になっているパターンが結構ある。もちろん、ある程度推敲したら終わり、という作品もある。
シロクマ文芸部のお題で書いている作品は「大喜利」として書いているので、ほとんど推敲していないし、寝かせていないからとにかく「ナマ感」が強い。「よし、できた!投稿」みたいな作品もある。勢いで書いて、推敲回数はバラバラ、ということが多い。だから投稿してからしょっちゅうしれっと直している。
昔から書いている長編などは、年単位で推敲し続けている。10年もの、20年もの、ワインのようだ。美味しくなっている場合もあれば、腐っているのもある。うっかり生け簀に放っていて、ヌシになっていたようなものもある。こういうのは放置はできず、ずっと生き続けているから世話をしなければならない。50万字くらいをコツコツ推敲し続けるタイプの作品というのがある。
先日文庫本にした『白熊と光』は、制作年代のバラバラな作品を文庫化するにあたり、寝かせたものを久しぶりに推敲・校正した。それと、シロクマの「ナマ」(ビールの話ではない)を組み合わせた短編集だ。
さて推敲のやり方として、もうひとつ豆島さんが書いていたのは「多視点から推敲する」ということ。
まさにこれが推敲のキモだな!と思った。
ミステリほど時系列の整合性を問題視されることはないけれど、自分の作品にも「この人が14歳の時のあの人の年齢がおかしい」みたいなことは頻繁にある。
それで登場人物の、生まれてから死ぬまでの年表をエクセルで表にしている。「飛鳥」が生まれたとき「朔」は何歳、みたいなやつだ。私の死後、家族が見たら「なんじゃこりゃ」と速攻捨てるであろうデータだが、私にとっては機密である。笑
豆島さんは、
とおっしゃっていて、ここが無意識に出ていたところに、ピリカさんが鋭く反応したのではないか、とのこと。
このあたりは、まさに「行間を読み取る」「書いてあることの裏側を読む」といった読者側の読解力のなせる業とも言え、「書いてある通り」にしか受け取らなければ何も感じないかもしれない。
これ。作る側には「背景を必要とするのでそこを深掘りする」、ということは多々、あるなあ、と思った。「表面に出ている言葉」が出てくるためのバックグラウンドを想定する、というのは作品の説得力に直結するし、そこを考えることは、実は、作った人にとって楽しいことなのだ(と、私は思っている)。
そして楽しすぎるとスピンオフがいくつもできる。
私が現在文庫本にしている『飛鳥』と『他人のそら似』と『春告鳥シリーズ』は、推敲をやり過ぎた結果、独立した作品になった。同じ時系列の同じ出来事がリンクしながら、3人の視点を深掘りした結果、作品化してしまった作品。それがその三作品なのだった。そしてどれも、次の世代ともリンクしている。
世代をまたいだ物語を書きたい、と思っていたのだが、それを現実の話にするとリアルな歴史と切り離せなくなる。私はそういうものを書きたいのではなかった。視点を変えることで見えてくる世界と人物像、のようなもの。そしてそれ以上に、普遍的なことを書きたかった。わたしにもあり、親にもあり、子供にも孫にもあるもの、人間として生まれた以上、過去と未来の誰にでもあるもの。それを、書いてみたかった。
意外と、原点は『源氏物語』と宮沢賢治にあったんじゃないか、と思う。『源氏物語』は平安期の、宮中という止まった世界の中での、3世代物語だ。宮沢賢治は「イーハトーヴ」というある種の異世界を設定して物語を書いている。『百年の孤独』は、私は最初本当にある場所だと思っていて、途中想像上の村だと分かった時には感動した。とはいえこれは中心の世界と辺境という対立した構図があって、私の求めたものはそういうんじゃなかった。笑(↽失礼)。でも、独自の世界を規定すること。別の世界という縛りを儲けること。それが、私の原点だったんだと、なんかすみません、豆島さんの記事から突然自分の作品の生まれた源泉にさかのぼってしまった。
作者の豆島さんが読者のピリカさんに「堂森さんの元妻は堂森さんをまだ好き」と言われた時にそうか、そうだったんだ、へーえ、と思ったような感じで、私は今、自分の原点を見せられて感心している。笑
推敲からちょっと外れてしまったけれど、よき気づきをいただいた。
ちなみに「校正」の部分で、私の間違いで最も多いベスト3は、
無駄な指示語や接続詞
二重表現(進次郎構文みたいなもの)
表記の整合性(同じ単語を漢字で書いていたりひらがなで書いていたり、ヴァイオリンとバイオリンなど)
——他にもいろいろ。
最近はワードなどでもエディタ機能があるし、チェックの性能も良くなっているので助かっている。
自分のことだと気が付かないけど、他の人のことだと細かく気がついたりするのだから、本当に人間て不思議(一般化して逃げることにした)。