澪標
蒼天から悲しみが降ってきた
それは全く抗えぬ悲しみだった
悲しみは深く鋭く心の奥底を突き刺した
剣のように矢のように刺し貫いた
なぜこのような と 悲しみに問うと
悲しみはしかつめらしい顔をして
口を吽の字にして黙った
答えられぬのか と
なかば憤りながら問い直すと
悲しみは恬淡とした風情で
なにゆえかと問う勿れ と謂った
なぜと問うのか
それはわたしにもわからぬ
わたしは生まれた時から悲しみなのだ
悲しみとして生まれたのだ
存在になぜと問うてはならぬ
曇天から薄墨の雨が降ってきた
それは全く抗えぬ雨だった
雨は私に食い込んだ悲しみにも降り注いだ
血のように涙のように降り募った
悲しみは雨を一身に受け
大きくその身を震わせた
目に見えぬ血と涙で濡れそぼり
はちきれんばかりに膨らんだ
なぜそうまでして と 悲しみに問うと
悲しみは濡鼠のようになって震え
口を阿の字にして吼えた
また答えられぬのだな と
もう期待もせずに独り言ちると
悲しみは厳かに謂った
存外 晴れやかに聴こえるほど
透きとほった声で
いつかわたしが癒える日が
この剣 この矢が
見えなくなる日がくるであろう
そのときわたしは
わたしでなくなり
密やかな古傷の疼きとなろう
そうやって
御身はわたしを 忘れるのだ
そしてまた新たな悲しみが
霹靂のように御身に落ち
御身を劈くであろう
受け入れるか 受け入れぬか
問われることもなく
そう謂って悲しみは
慎み深く首を垂れ
御身が生きている限り
わたしは消えぬ
満ちては引く
月と波の如き時と忘却
わたしのかんばせを澪標として
御身を慈しみたまへ
いつしか悲しみは
胸を締めつける懐かしい面影となり
刹那と永劫の間に
その睫毛を伏せたのであった