ゆうこちゃん #シロクマ文芸部
「春と風とのあいだには今日も黄色いヤツが飛ぶぅ」
どこかで聞いたことのあるようなメロディーに適当な歌詞をつけて歌うと、ゆうこちゃんは盛大なくしゃみを放った。
「何それ、何の歌?」
私が聞くと、ゆうこちゃんは、七菜のお祖母ちゃんがカラオケでよく歌ってた歌だよと言った。お母さん、中島みゆきが好きだったからねと言う。
「中島みゆき?」
「プロジェクトXも、そうか、知らないか」
ゆうこちゃんはそう言いながら、またくしゃみを連発した。
「今日はこの春最大の飛散量だよ。たまんないわ、もう。七菜、ティッシュ取って」
私が「鼻セレブ」を手渡すと、ずるずると鼻を啜りながら受け取って、赤い鼻をティッシュで押さえた。
ゆうこちゃんは、私の叔母だ。母の妹で、38歳。結婚していないので、ずっと一緒に暮らしている。
花粉症は、大人になって就職してから発症したのだという。ゆうこちゃんによると、完全にストレスが原因なのだそうだ。病院でもらった薬を飲んでいても、今日のようにダメな日はダメなのだという。
「なんで飛ぶのよ。ムカつくのよ。あったま痛いったら、もう」
10秒に1回くらい文句を言いながら、ゆうこちゃんは出勤した。
いってらっしゃい、と手を振って見送りながら、私にそんなこと言われても、と思う。昔から、ゆうこちゃんは母より私との方が姉妹のようだ。友達は、叔母さんとなんてお正月に会うか会わないかだなあ、というので驚いたことがある。誰も叔母さんとは仲良くないらしい。
ゆうこちゃんは気象予報士だ。
それを知った人からは「難関国家資格でしょ、すごいね」と言われるのだが、ゆうこちゃんは案外サクッと合格した。ただ、ゆうこちゃんが言うには、念願のテレビ局に就職したのになんの恩恵にもあずかれず、裏方でデータ分析ばかりしているのだという。
ゆうこちゃんは姪の私から見ても結構可愛いと思うのだけど、お天気お姉さんもキャスターも、させてもらえなかったそうだ。「なかった」と過去形なのは、もうゆうこちゃんが「お姉さんって年でもなくなったし、キャスターは上がつっかえてるし」と諦めてしまったからだ。
お天気コーナーでゆうこちゃんを観るのを楽しみにしていたのにと母に言うと、花粉症がひどいからじゃない、とにべもなく言った。確かにズビズバの腫れあがった顔では、見栄えが悪いのかもしれない。だけど、その顔を見たら明らかに花粉の状況がわかるということでもあるわけで、花粉症の人には一番、役に立つんじゃないかと思ったりする。
母はでも、違う見方もしていた。
「たぶんゆうこのデータ分析が正確で、そっちの方が才能あるってことなんだと思うよ」
母がそう言っていた、とゆうこちゃんに言ったことがある。そうなのかもしれない、と真面目腐った顔でゆうこちゃんは頷いた。そしてわたし結構有能なんだよねと、特に自慢気でもないけれどまんざらでもなさそうな顔で言っていた。
そんなゆうこちゃんに、その春、久しぶりに彼氏ができた。
どんな人なの、と聞いても答えない。ゆうこちゃんは昔からその辺は秘密主義なので、彼氏のことを教えてくれたためしはない。
でもだんだん、休日におしゃれして出かけて行ったり、夜遅くなったり、機嫌がいい日が多くなった。出かけた日は必ず、お土産に小洒落た名前のお店のエクレアとか、ドーナツを買ってきてくれた。
ゆうこちゃんに彼氏ができる前は、ふたりのお休みが重なる日には一緒にショッピングモールに行って服を選んだり、帰りにファミレスではないちゃんとしたカフェに寄ってパフェなんかを食べていたので、それはそれで少し、寂しかった。ゆうこちゃんの恋が上手くいって欲しいと思うし、エクレアやドーナツが美味しかったけれど、やっぱりちょっとだけ残念だった。
ある日曜日の昼過ぎ、部活の朝練から帰ってきたら、昼帰りのゆうこちゃんがスウェットの上下でカップスープを飲んでいた。
「なんかゆうこちゃんと会うの久しぶり」
と私が言うと、ニヤッと笑った。
「七菜、わたしちょっとおヨメとやらに行くことにしたよ」
「えっ。結婚するの?」
ゆうこちゃんはまたニヤッと笑った。
私は、その笑顔が何だか嫌だなと思った。照れ隠しなのだろうけど、ゆうこちゃんらしくないと思う。
「えー、どんな人?もう教えてくれるよね?」
「うん、まあ・・・ええとね、今度一緒に・・・」
「あっ!もしかして芸能人なの??」
えーっ、えーっと言いながらスマホをググった。ゆうこちゃんと同じ局でテレビに出てる人って、誰だろう。
「芸能人じゃないよ。どうやって芸能人と知り合うのよ、わたしが。キャスターでもないよ。調べても出てこないよ」
ゆうこちゃんはそう言うと、手元にあったスマホをちょっと触って、私の方に向けた。
「えええ~これかよ」
私は拍子抜けした。普通の人だった。普通の、普通過ぎるほど普通の、なんか、ビジネスマン、みたいな人だ。私服を着ているのにビジネスマンみたいな人。イケメンでもない。若くもない。ゆうこちゃんと並ぶと顔がでかい。鼻の穴が大きくて、ちょっと横に突っ張っていて、強いて言えばカバみたい。
私はゆうこちゃんは絶対、テレビに出ている人と結婚する、と思い込んでいた。
「なんで、えええ、なのよ。七菜、なんにも知らないでしょ、この人のこと」
ゆうこちゃんはちょっと私をにらんだ。
「なんか、やだ」
あからさまにがっかりしたのを隠さず、私はスマホをゆうこちゃんに押し付けた。
「別にあんたに気に入ってもらう必要はないけど、失礼だよ、その態度」
ゆうこちゃんは、少し本気で怒ったようだった。
私は、ゆうこちゃんのそんな顔を見ても、どうにも納得できなかった。逆にゆうこちゃんをにらみつけると、2階の自分の部屋に駆け込んだ。無性に腹が立った。先月誕生日だったからって、結婚を焦ったんじゃないの、と思った。なんであの人なの。なんで。心がもやもやして、いっこうに気が晴れなかった。
それから間もなく、花粉の季節が終わって初夏を迎えるという頃に、ゆうこちゃんは本当に結婚して家を出ていってしまった。
あれから、ゆうこちゃんと私の間はぎくしゃくしていた。男は顔じゃないのよ七菜、と母は聞きようによってはすごく酷いことを言ったけれど、私はゆうこちゃんにおめでとうも言わなかった。
ゆうこちゃんはもっと素敵な人と結婚するはずだったのに、と思う。よりにもよってあんなカバと。
結婚式の日まで不貞腐れた態度だったのは良くなかったと思うけど、ゆうこちゃんだって、私の方を見ようともしなかった。大人気ないのはどっちだよ、と思う。ゆうこちゃんは綺麗なドレスを着て、つんとすまして、みんなにだけ笑顔を振りまいて、バブルシャワーの向こうに消えていった。
式だけで新婚旅行にも行かず、すぐに日常の生活を始めたゆうこちゃんは、家を出たとは言え、しょっちゅう実家に出入りした。
私は部活が忙しかったし、顔を合わせることなかったけれど、ゆうこちゃんが来た日は、小洒落たお菓子があるのですぐわかった。
文化祭やテストや修学旅行や部活の試合に夢中になっているうちに季節はどんどん行き過ぎて、気がつけばまた春がやってきた。
ゆうこちゃんのことは、できるだけ考えないようにしていた。お菓子の気配で来訪を察するだけだ。ゆうこちゃんも、私とはなるべく会わないようにしているようだった。
「今日は花粉、多いですよ。この春いちばんの飛散量です!念入りに対策してくださいね」
というお天気キャスターの声が耳に飛び込んで来た朝は、久しぶりに部活のない日曜日だった。母も珍しく家にいて、朝食の後、昨日ゆうこが持ってきたお菓子があるよ、と言った。
すっかり暖かくなり、春めいた光がリビングに差し込んでいた。
掃き出し窓を開けようとして、その手が止まる。
1年前は、窓を開けようとするとゆうこちゃんから「なにやってんの!殺人行為だよ!」と止められていた――
今頃、ゆうこちゃんは涙目でくしゃみを連発しているんだろうか。
鼻セレブは切らしていないだろうか。
そんなことを考えながら、窓をほんの少しだけ開けて、テーブルの傍の椅子に腰かけた。
「あんたもねえ。そろそろ大人になりなさいよ」
母はお土産の高級かりんとを食べながら言った。
「はあ?なにそれ」
私は手を伸ばしてかりんとをつまむ。ゆうこちゃんのお土産は、いつも名前のある高級なお店のものばかりだ。
「もう1年も経つじゃないの。ゆうこはね、おめでとう、って言ってもらいたいだけなの、わかるでしょ」
「私だって、あんな人じゃなかったら祝福したよ」
つい、本音を言ってしまった。
「あんな人って何よ。あんたあの人のこと何にも知らないじゃないの」
母は、あのときのゆうこちゃんと同じことを言った。
「だって。私、ゆうこちゃんは芸能人と結婚するって思ってたんだもん。顔小っちゃくて細くて可愛くて頭良くて。なのになんであんな人と――」
「七菜」
珍しく、母がとがめるような声を出した。
「言うなっていわれてたけど、七菜。ずいぶん酷いから言うわ。今までゆうこが買ってきてたお菓子、全部ゆうこの旦那さんが買ってくれたものだからね」
「え?」
私はかりんとをつまむために伸ばしていた手をひっこめた。
「姪っ子と仲良くて、すごくかわいがってるんだって話したら、姪っ子さんに持って行ってあげてって毎回お菓子買ってきてくれたんだって。今のこれだってそうだよ。なのにあんたは、何にも知らずに酷いことばっかり」
「え、でもゆうこちゃんは、あの人と付き合う前からずっと――」
「こんな高級菓子ばっかりじゃなかったでしょ」
「ええっ??なんかでも、それって嫌じゃない?それでゆうこちゃんの気を引こうなんてそんな――卑怯っていうか・・・」
「七菜」
母は今度は少し、怖い顔をした。
「あんたが寂しいのはわかってた。だから今まで何にも言わなかったの。あんたがゆうこのこと、大好きなのは知ってるよ。でもちょっとやりすぎ。もう結婚しちゃったんだよ。そこまで無視する必要ある?」
急に、カラメルソースが沸騰するみたいに急に、涙がぶわっと溢れてしまった。わかってた。わかってた、そんなこと。でも、言葉にされたらたまらなかった。
「赤ちゃんの頃から、ずっと一緒だったもんね。母親の私よりずっと気が合うし、ふたりで笑い転げてるの見るの、私も好きだった」
母の目にも、ちょっとだけ涙が見えた。
「でもさ、いい加減、オバ離れしなさいよ。ね。ゆうこだって寂しいんだよ。自分が好きになった人を、七菜にも好きになって欲しいんだよ」
わかてた。わかってた。
自分が酷いことを言ったこと。酷い態度を取ってたこと。
でもどんな顔していいかわからなかった。
ゆうこちゃんのいない人生なんて、なかったんだもの。
なんでも教えてくれたし、何でも買ってくれた。どんな話も聞いてくれたし、友達より母親よりずっとずっと親身になってくれた。
それを超イケメンの花形キャスターではなく、あのカバ男が、横からかっさらって行ったんだもの。
泣き止まない私の肩を、母が優しくぽんぽん叩いた。
「今度一緒に、うちに来てもらおうね?」
赤ちゃんが出来たんだって、と母が言った。七菜のいとこだよ。七菜とその子も、きっと仲良くなれるよ、きっと、ね。
カーテンがふわりと揺れた、と思ったらめくれ上がった。掃き出し窓の隙間から瞬間的に吹き込んだ風が、テーブルの上のティッシュをかたん、と揺らす。
まるでアザラシがくしゃみをしたみたいだった。
母が箱を抑えるようにして手を伸ばし、しゅっと鼻セレブを1枚取ると、私に渡した。しっとりとしたそれは、私の涙を吸い込んでいく。
ふんわりと、優しく。
なんだかやっと、心から素直に、おめでとうと言えそうな気がした。
了
※昨日、大谷翔平選手の結婚が発表されましたね
※憧れの人の結婚は結構ショックなものでしょうね
※鼻セレブのアザラシは定番柄で、タテゴトアザラシの赤ちゃん
※かろうじて、私は花粉症ではありません
※今回はちょっと長くなっちゃいました
※部長、よろしくお願いします