本日は晴天なり #シロクマ文芸部
「秋」と「本日は晴天なり」、どちらを選びますかと男は言った。
その男に会ったのは去年の暮で、暖冬と言われる割には肌寒く、暗く底冷えのする日だった。この男の陰鬱な顔をもう一年も見ているのだと、不思議な気持ちになる。なぜ自分がこの男と一緒にいるのか皆目思い出せないが、この男と自分は何か特別親しい間柄だったらしい。らしい、というのはさっきも言ったように男との関係を何も思い出せない為で、それも道理、自分は私、なのかも僕、なのかも、何も覚えていないからだ。
記憶喪失なのですよとその男は気安く手を握りながら言う。触れられて肌が泡立つような気さえするが、それが好もしさゆえか嫌悪ゆえなのかもわからない。
「秋」はつぶあんで「本日は晴天なり」はこしあんですよ。聞かなくともわかります、あなたは昔からつぶあんが好きでしたから、「秋」のほうがよろしいでしょうね、そう言って男は奇妙な仕草で「秋」を握らせた。力の入らない手からは「秋」がぽとり、と落ちる。おやおや、「秋」はお気に召しませんでしたか、ならば「本日は晴天なり」を召し上がりますか、たまにはこしあんも宜しいでしょうな、「秋」は私がいただきます。そう言って男はテーブルの下に落ちた「秋」を拾い上げ、丁寧に包みを開いて口に入れた。男の口元が歪んだようにもそりもそりと動くのをじっとみつめた。大丈夫ですよ「本日は晴天なり」も包みを剥がして差し上げますからねと、男はねっとりと優しく言い聞かせるように言う。
その時、女が部屋に入ってきた。中年の脂がしっとりとした餅のように彼女を包んでいる。中にはこってりした餡が詰まっているかのようだ。女は娘、だという。産んだ記憶はない。
お父さまご機嫌いかが、あら今日はお母さまのお召し物をお替え遊ばしたの、素敵だわ、良かったわねお母さま。そう言って、しかし娘はある一定の距離から近づこうとはしない。奇異を見る目つきが身体中を這う。
続いてもうひとりの娘が部屋に闖入してきた。こちらは痩せて貧相で、姉妹でこうも違うものかと男が良く嘆く。こちらの娘が姉らしい。あらお姉さまと、先ほどの肥えた娘が口だけで笑う。
御不浄へ行ってまいりますと、男が隣の席を立つ。こちらを心配そうに伺いながら、おひとりにするのが忍びないが、と名残惜しそうにする。男が出て行って、娘が二人、遠巻きにこちらを見た。
「”お母さま”が来てから、お父さまお元気そうじゃない」
肥えた娘が言った。
「どっちに入れたの」
錐のように尖った声で痩せた娘が言う。
「『本日は晴天なり』。お母さまはつぶあんがお好きだったから、お母さまには『秋』を渡して、『本日は晴天なり』をお父さまが召し上がる、という予想でしたわ。裏切られましたけど」
「お父さまはいちどにおふたつは召し上がらないものね。ことにお母さまが召し上がるものは決して召し上がろうとしないし、今回は失敗ね」
尖鋭な声はそう言うと、嫌悪感に満ちた眼差しでこちらを睨み、さらに続けた。
「宅の旦那さまが調達できるお薬にも限りがありますのよ」
「そうは言いましても、お姉さま。じゃあお姉さまが仕込まれたらよろしくてよ。わからないように仕込むのは大変なんですからね」
肥えた娘は不貞腐れたように姉に言葉を投げつけた。
痩せた娘は黙ってこちらを見て、そして怖気を感じたように身を震わせる。
「だんだん、お母さまに見えてくるわ、不気味ね、あのお人形」
「ええ。そうね。お母さまが乗り移っているような気がすることがありましてよ。ごらんなさいよ、ほら、ああやってこちらを見ている目」
肥えた娘の声に、ちらりと目線を寄こした後、痩せた娘は視線を逸らせた。
「一昨年お母さまが亡くなってから、そのまま亡くなってしまうかと思ったのに、暮にあのお人形を作らせてからすっかりお元気」
痩せた娘がそう言って、姉妹は再び気味悪げにこちらを一瞥して、部屋を去った。
机上には、こしあんの『本日は晴天なり』が静寂と共に置き去りにされていた。
あの男はこれを口にしてはならない。
記憶が蘇ったわけでも、あの男への情が湧いたわけでもないが、ああもあからさまな他人の嫌悪と奸計に、なにやら奇妙な感情が沸き起こった。
男が部屋に戻った時、『本日の晴天なり』は忽然と消えていた。
「おやおや、あなた。私がいない間に召し上がってしまわれたのですか。どうでした、銭洗庵のこしあんは」
皺皺の男の笑顔に、私は微笑みかける。
彼にしかわからない、妻の笑顔で。
了