紫陽花をんな無限ループ #シロクマ文芸部
紫陽花女がいる、という噂が、どこからともなく広がった。
昭和の口裂け女のことは、子供のころ見たオカルト系のバラエティでだいたい知っているが、紫陽花女なんて初めて聞いた。
紫陽花女は6月の雨の日、一眼レフのデジタルカメラを携えて現れるという。割とカジュアルな格好で、バックパックを背負っていて、足元はスニーカーで、軽快な足取りで寺社の階段を昇り降りしては、紫陽花の写真を何枚も何枚も撮るのだという。
それだけなら別に害がないではないかという人があるが、もちろん噂が立つほどだから何某かの不都合があるのである。
彼女に写真を撮られると、死ぬ、らしい。いかにもな都市伝説だ。といって、紫陽花女は別段、普段は人に向けてシャッターを切ったりはしない。彼女の目的はあくまでも紫陽花だけだからだ。
青、紫、桃色、白。毬のような丸いものもあれば、ガクアジサイもある。紫陽花の種類は何百もあるし、その植生は全国津々浦々、様々な場所にある。寺社の庭、マンションの入り口、公園の奥。
紫陽花女の好みは特に寺社で、住宅街に現れることはないらしい。彼女は紫陽花を発見すると、アングルを確かめ、色、形、好みのパースを定めると、二、三歩下がって見たり、近づいてみたりを繰り返し、ようようシャッターを切る。カメラの画面を確認し、満足がいくまで、それを繰り返す。
この時だ。この時に邪魔をしてはいけない。いよいよ写真を撮る段になってなんらかの障害が発生した時、紫陽花女は邪魔ものを被写体としてシャッターを切る。そのときの、えもいわれぬ紫陽花女の視線を浴びたものは、みな死ぬのだという。
噂は噂だ。死んだものを知らない。昔の口裂け女と同じであろう。
今目の前を行く女性は、何から何まで紫陽花女の特性を備えていた。バックパックを背負い、カジュアルな山歩きの格好で、足元はスニーカー。一眼レフのカメラを肩にかけている。時折、紫陽花を見つけて立ち止まっては、距離を測ってシャッターを切る。
「ねえ。ちょっと、そこ立って」
突然振り向いて、彼女が言った。
「ぼく?」
「そう。他に誰かいる?」
「いや。でも」
「何がでもよ。ほら。そこ立って」
ぼくは躊躇った。ぼくは彼女の邪魔は一切していない。ぼくが何をしたというのだ。彼女の後を歩いていただけ。それだけのことだ。
「写りたくないな」
「なんでよ」
「だってほら、噂が―――」
「噂って、なんの?」
「だからきみが―――」
「私が紫陽花女だからって、何?」
認められて、ぼくは怯んだ。
「あなた、もう、死んでるじゃない」
わたし、幽霊に後ろをついて歩かれるの、ほんとにやなんだよね、と彼女は言った。
「このエンドレスなループ、もうやめましょうよ」
やめるといったって、やめ方がわからない。
「あなた、死んでること認めたほうがいい」
「むりむり」
ぼくは胸の前で手を振る。
「ぼくは死んでない」
「いやいや。死んでるのよ」
彼女は首を振った。
「私に写真を撮られて、あなた死んだの。それで私のこと、うらんでるんだよね。だから後をつけてくるんでしょう。しつこく」
だってほら、見て。
そう言って彼女がシャッターを切り、画面をぼくに見せた。
そこには美しい紫陽花の重なりがグラデーションで画面いっぱいに溢れかえっているだけだった。
「じゃあ、きみはどうして、ぼくが見えるの」
「さあ、どうしてかな」
「きみも死んでるんじゃないの、本当は」
「いやいや」
彼女はまた言った。
「わたしは死んでない」
口論するぼくと彼女の間を、修学旅行の女生徒たちの一団が、健やかな笑後を残して通り過ぎて行った。
ぼくと、彼女の身体を通り抜けて。
「ほらみろ」
ぼくは言った。
「きみはもう死んでいる」
その言葉に、彼女は大層驚いた様子で、えっと言った。
「だってほら、見て見なよ」
ぼくの手は血だらけで、右手にはナイフが握られたままだ。
「じゃ、なに。わたしは写真を撮ってるときにあなたに殺されたの?わたしはそれに気づかずに写真を撮り続けて、紫陽花女と呼ばれるようになったの?あなたは、幽霊になったわたしのあとを追いかけて、紫陽花女であるわたしは噂通り撮影を邪魔したあなたを写真に撮るわけ?そうすると、あなたは死ぬってわけよね。でもわたしはもうあなたに殺されていて、気づくとまた写真を撮っている。あなたはわたしをつけてくる。訳がわからない」
「きみはぼく以外の人を写真に撮ったことがあるの」
「そういえば、撮っていないな、あなた以外」
「きみはさっき、無限ループと言った。気が付いていたんじゃないのか、最初から」
「途中から、なんだかおかしいと思ったの。わたしが写真を撮っていると、あなたが必ず後ろを着いてくるし、あなたを写真に撮ればあなたは消えるけど、気づいたらまたあなたが後ろをついてくる」
「ぼくももう、いい加減やめたいよ。でも気が付くと、君の後ろを歩いているんだ」
「ちょっと待って。整理しましょう。まず、あなたがわたしの後を追いかけてきたのは、それはどうして?」
「きみが好きだったからだね」
「ストーカーってこと?」
「そういう呼ばれ方は、好きじゃないな」
「でもどうしてわたしを殺したの?」
「きみが写真にばかり夢中で、ぼくのことを振り向かないから。君に声をかけたら、君が逆上したんだね。どうして私の後をついてくるの、というから丁寧に説明したら、きみはいきなりぼくにカメラを向けて写真に撮った。証拠だというから、それを取り返そうとしてもみ合っているうちに、気がついたらナイフで刺していた」
「そんな感じじゃなかったな」
その時のことを思い出したのか、彼女は冷たい目で僕を見ながら言った。
「ナイフはもう持っていたんだし、殺意は最初からあったんでしょう。だってほら見て」
めった刺しっていうのじゃないの、こういうの。
彼女は上着をめくってみせた。確かに何か所も傷があり、血がこびりついている。
「きみが抵抗したから」
「ふつう、するでしょう」
「ぼくの愛を受け取ってくれないから」
「知らない人の異常な愛って、受け取るものかしら、ふつう」
「ふつう、ふつう、とうるさいね」
「それだわ。それ。あの時のあなたの目」
ぼくはまたナイフを振り上げた。
「ちょっと待って」
以前は制止されても振り下ろしたが、今は何度目かわからないので踏みとどまった。自分でも、ループに嫌気がさしていたのかもしれない。
「なに?」
「あなたがわたしを殺した。そこまではわかった。わたしは自覚なく幽霊になったけど写真を撮り続けていた。でも幽霊になったわたしがあなたの写真を撮って、どうしてあなたが死ぬことになるの。噂みたいに、本当に視線で殺すことができるなんて思えない」
そういえば、そうだ。ぼくにも死んだ自覚がない。
「あれ。どうしてなんだろう」
ぼくは間抜けに言った。
「それで、どうして噂になって、どうしてわたしが近所の小学生から紫陽花女と呼ばれなくちゃいけないわけ?理不尽だな」
「うーん」
ぼくと彼女はその不可思議にしばし考え込んだ。
互いへの感情は、どういうわけか希薄だった。
彼女は僕を恨み、僕も彼女への強い感情があったはずなのだが。
「それは、私たちに血を浴びせたからよ」
突然、ふたりの後ろで声がした。満開の紫陽花を掻き分けるように揺らして、中から女がひとり、ゆらりと現れた。何か綺麗な着物を着ているようだが、朧な姿だ。
「私たちはね、ものすごくたくさんの水分を必要とするの。だから思い切り吸っちゃったじゃないのよ、血を。綺麗な水が欲しいのに、あなたがあなたの血を吸わせて、色も変わっちゃったし大迷惑よ。長い休眠のあと、やっと咲いてるのよ私たちは。むかつくのよ。それでちょっと細工をして、大雨を振らせてあなたの足を滑らせて、・・・そう、その階段から落ちてあなたは死んだの」
その、と、着物の袖から出た白い指先が、僕が立っている階段をさし示した。その指はまるで小さな白い蛇のようだった。
「なるほど。それで我々は、殺人現場とこの階段の間をうろうろしているわけですね」
「やっと理解した?あなたたちがあんまり反省しないから、紫陽花女の噂を流して、あなたたち自身がこのくだらないループを自主的にやめるように仕向けたんだけど、いっこうにやめないので、私たち迷惑してたんだから。さっさと成仏してちょうだい。邪魔なのよ」
どうやら本物の「紫陽花をんな」であるその女は花を揺らしてまた紫陽花の花の海に戻っていき、いつの間にか血だらけでカメラを携えた目の前の「紫陽花女」がついに冷酷な目で僕を見た。そのえもいわれぬ目。
「やっとわかった。そういうことならこういうことね」
冷ややかにそういうと、彼女はカメラを僕に向け、有無を言わさず無慈悲にシャッターを切った。
瞬間、僕は階段の下にいた。階段から落ちて持っていたナイフが身体に刺さっていた。豪雨だった。僕はあのときすぐに絶命しなかったらしく、うめいたが、雷鳴がひっきりなしに轟き、雨の音以外何の音も聞こえない。寺社の古い、山道に石を積んで苔に塗れた階段からは、川というより滝のように水がしぶきを上げて流れてきていた。僕は半分溺れそうになりながら、ぱくぱくと息をした。
そのとき目の前に、スニーカーの足が見えた。濡れてもいないし、泥ひとつついていない。僕はそっと目だけで上を見あげた。
「紫陽花・・・をんな」
つぶやきはつぶつぶと漏れ、それ以上の大量の土砂が唇の間からはいりこんだ。彼女は、再び紫陽花から揺らめき出た女と手に手を取って、豪雨の中を軽やかな足取りで去って行く。
待ってくれ、と手を伸ばす。でも遅かった。
ループは絶ち切れた。
だけどもぼくは、ひとりそこに取り残された。
以来ぼくは、紫陽花の季節になると、階段を昇ったり下りたりを繰り返している。
なんのためかも、わからないまま。
了
※をんな=女。「をみな」の音変化。