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言葉あれこれ #1

 年齢や世代が文章に及ぼす影響は大きいと常々思う。

 本を読んでいると、会話や地の文で、今はあまりこういう言い方をしないな、とか、あの頃流行っていた言い回しだ、などと引っかかってしまうことがあるが、文豪や売れっ子と呼ばれる作家の文章には、それがあまりない。あるにはあっても、たいてい「あえて」のことだ。

 テーマに普遍性がある場合、名前が梅子や松男でも、表現が少しばかり古くても、その感動は古びることなく続く。もちろん、モモカやキリトでも心ゆさぶるものがあれば将来的に読み継がれるものになりえると思う。ただ、一人称、言葉遣い、語尾など、どこかに違和感があると、急に居心地が悪くなる。今にしか焦点が当たっていない作品は下手をすると読み捨てられて忘れ去られ、数年も経つと古くさくて読めなくなっていたりする。

 何十年経っても読み返して不自然さがない文章には、やはり普遍性がある。それを目指して日々精進している。
 自分の年齢や年代を感じさせず、創作する舞台の年代を演出するというのはひとつの課題ではあるが、残念なことに、おそらく年齢が上がれば上がるほど、本人がそれに気がつかないということが往々にしてある。気がつけないのだ。また読み手のほうとしても著者の年齢への先入観で目が曇ることもある。

 時代物や歴史小説はまだいいが、恋愛物は会話が肝だから特にいけない。
 エッセイは、等身大の方が多くの共感を得られるし、コメントなどもその人自身が現れる文章の方が親近感が増す。年齢や実体験を晒した方が、同年代にはもちろん、かえって幅広い年齢層に受け入れられやすいと思う。
 創作は、いかに自分の年齢や年代を隠蔽できるかにかかっている気がする。

 私自身、できる限り気をつけているが、人前に晒すことを前提にしていなかった昔の作品には特に、結構そうした悲しい落とし穴が散見され、発見すると落ち込む。おそらく、今こうして書いてるnoteの文章にも「おばさん臭」を感じ、記事を読む必要性を感じずに敬遠する人もいるだろう。

 先日、これはリアルでの話だが、「閑古鳥が鳴いている」ような百貨店のフロアを「斜陽って感じだね」と言ったら、いまどき斜陽って使わないよねと笑われた。太宰知らないのかしらと思ったが、すでに太宰は「オワコン」で太宰を知らない人も多いし、彼が『斜陽』という作品を書いていたとか、『斜陽』が戦後の没落貴族を描いていたとか、そこから「斜陽族」という言葉が生まれたとか、それ以後傾いた会社やなにかを斜陽と表現していたとか、そういうことを知る人はもはやいないのだった。いつのまにかそれが普通の世の中になっていた。スルーされたが当然、閑古鳥も通じなかったと思われる。

 無意識に使っている。それが怖い。
 どこからどこまでが教養と呼ばれる許容範囲で、どこからどこまでが弾かれるものか、言葉の枯れ具合、腐り具合、熟し具合の加減を、常に敏感に見極めておかなければならないのに、気づけない。その気づけないことそのものに、年齢が深く関与しているように思えてならない。

 ではみんながわかりやすいような表現にしたら、それで解決かと言うとそうでもない。そうした文章はえてして画一的になる。

 創作物には、個性が必要だ。文体やスタイルが、作品と作家を形造る。古臭さを個性にしてもいいが、それはなかなか成功しないし、読者層はかなり限定される。今の時代に添いながら、それでいて揺らがない個性を打ち出していくには、どうすればいいのだろう。

 今は老若男女に受け入れられるのは難しい。無理だと言ってもいい。人生の後半でスマホに接した世代と、目まぐるしく変化する機器に対応してきた世代、最初からがスマホがあった世代の3世代には理解しあうことができない断然がある。

 産業革命を挟んだ3世代もそんなものだっただろう。
 史上初の量産型自動車を作ったフォードの創始者ヘンリー・フォードの言葉は有名だ。

「もし顧客に彼らの望むものを聞いていたら、人々は『もっと速い馬』と答えただろう」。 

 スティーブ・ジョブズはそれを受けて「多くの場合、人は形にして見せてもらうまで自分が何が欲しいのかわからないものだ」と言った。

 私たちは無常の世界に生きているので、目まぐるしく変わることが当たり前の世界に住んでいる。にもかかわらず、人の頭の中は容易に更新しない。
 目に映るものを認識して初めてその賞味期限を知るのだ。

 自分の書いたものや、誰かが書いたものを読んで初めて自分の頭が止まっていることに気づく。私は速い馬だけを追い求めて来たんじゃないだろうか、と思う。

 おそらく、言葉を使って作品をつくる者は、そこにこそ敏感であらねばならないのだと思う。でも哀しいかな、年齢を重ねると本当にその小さな綻びに気が付きにくい。書き手として若いということが知識教養において不利という人もいるが、私はそうは思わない。

 時代に添う言葉を使うには、若さは武器である、と思う。
 それは「若い言葉や流行り言葉を使う」ということに限定しない。言葉に敏感に反応し、細かく修正していく能力は、若いころにこそ遺憾なく発揮されるものだ。

 色々と遅きに失した感のある自分を振り返る。
 何度も自分の書いた文章を推敲し目で追いながら、誰か若い人が私の文章を校正してくれないだろうかと夢想している時点で、ちょっと苦い気持ちになったりする今日この頃だ。あ、この言い方も昭和かもしれないな。