【創作大賞2024/恋愛小説】眠る女 1
あらすじ
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1
さんざめく街の揺らめきの中からやっとの思いで帰宅した葵には、いま約束された安眠が待っているはずだった。
狭い玄関で体を曲げて靴を脱ぎ、ようやく立ち上がると、身体は海水から砂浜へ上がった時のように重く、だるい。夫の時生は、まだ帰っていなかった。
服をばらまくように脱ぎ散らかす。椅子に引っかかったスカートを追いかけるように、へなへなのストッキングがベッドの端にだらりとぶらさがった。
下着を脱ぐと突然生ぬるい肌の熱が指先に触れた。歯ぎしりしたいような気持ちで、何もかもかなぐり捨てるように全裸になる。ヒステリックな自分の肌の火照りが、葵を苛つかせた。果てしなく疲れているのに、どこまでも眠りの中に落ちて行きたいのに、今日も眠れない予感がした。
眠れない。絶望的な気持ちで、葵はスマートフォンを掴み取った。眠れない。眠れないのだ。怠けたいわけではない。ちゃんと仕事をしたいと思っている。でも、本当に眠れないのだ。今日も昨日から一睡もしていない。会社には、這うようにして行った。
不眠の日が1日を超えてくると、突然、昏睡したような眠りが訪れて、ふつりと記憶が途切れる。目が覚めて早朝だと思っていると、枕元のデジタルの時計は無情にもそれが翌日の夜中だということを伝えてくる。
睡眠障害。それが、自分の病名だということを、葵は知っている。
スマホを握り締めて、真新しいベッドにうつぶせになった。ふと、マリリン・モンローのことを考えた。全裸、ベッド、電話の受話器。
―――早朝、彼女は死体となって発見された。
イメージの中で、くっきりとテロップが浮かんで消えた。
葵は、誰の電話番号も選ばなかった。代わりに、何かドラマを観ようと思った。長い海外ドラマがいい。長くて、退屈な。
いつからこんな生活になったのだろう。
こういう病を持つ妻と生活をともにしていたら、夫の生活は滅茶苦茶だ。だから夫はずっと、リビングのソファに寝ていた。
あいまいな記憶をたぐる。
この前病院に行ったのは……そう、二週間前だ。三週間前だっただろうか。たしか、水曜日だった。木曜だったかもしれない。どっちでもいい。そうだ、木曜だ。大学病院では水曜は担当医がいないのだ。担当の医師が薬をくれなくなったので、別の医師のときに行った。とにかく薬をもらった。たしかに頭痛はすこし治まった。でも、葵の魂はいっこうに開放されなかった。
仕事にも差し支え、ひょっとしたら明日にも馘になるかもしれない危機的情況だ。医者は、自身が原因解明と解決を拒んでいるという。そんなことを言われても困る。夫は病院を変わればいいのにと再三にわたって言い続けている。薬さえもらえればいい、という言葉を夫の前では飲み込んでいる。もう、半分くらいどうでもよくなってきていた。
カオルの結婚式のときはまだ普通だった。
カオルは、大学時代の友人で、たまに恋人関係になる間柄だ。彼とは別れてもなぜか身体の関係が切れることがない。互いに結婚してからも、何度か彼に誘われる。その都度受けていたわけではないが、まったくレスになったわけでもない。夫がいながら、といわれそうだが、残念ながら夫とのほうがセックスレスだった。夫は葵の身体には微塵の関心も示さない。彼はセックスが嫌いだった。この世にはそういう人もいる。承知の上で、結婚した。時生といても、女性として満足することは一生ないかもしれない。それでもよかった。これまでの人生で、一緒に暮らしたいと思ったのは彼だけだ。
カオルの結婚が決まったとき、葵は少しだけ動揺した。
彼が誰かと所帯じみた生活をするところを、どうしても想像出来なかった。
カオルは、よく二人で行くバーに葵を呼び出して、結婚を告白した。
「しょうがないよ。親が年取ってからできた子供なんだ、俺。だから早く孫の顔が見たい、ってさ。親が連れて来た人だけど、まあ、結婚するにはいいみたいだ。でも、葵はずっと、俺の一部だ。それは、たぶん一生、変わらないよ」
悪びれもせず、カオルは言った。
いい家に生まれ、何不自由なく育ち、特に苦労も葛藤もなく親の勧めた会社に入り、ついには親の連れて来た女性と結婚するという、ひと。そういう人生のひともいるのだ。そう思うしかない。親の言うがままに生きる息子は、親にとっては可愛くて仕方がない子供なのだろう。彼自身が、それをのぞんでいるのなら何の問題もない。
しかしその後、当然のようにカオルはホテルに誘った。葵は、その心理をうまく理解出来なかった。急に、自分がゴミ処理場になった気がした。心がみるみるうちにゴミやがらくたであふれた。ホテルには行けなかったし、行かなかった。
そんなことがあったのに、彼は大学時代の友人のひとりとして葵を結婚式に呼んだ。
挙式は教会で、ハネムーンは台湾。なぜ葵を式に呼んだのか、またしても理解出来なかった。行ってしまった自分自身の行動も不可解だった。葵はそこでは、ただのサークル仲間で、人妻だった。それ以外のなにものでもなくそこにいた。
「しばらく会わないことにしない?」という言葉を、彼はこれまで葵に都合三回告げている。
別に俺達別れるとか別れないとか関係ないでしょ、が一回目。結婚せずに、ずっといい関係でいようよ、が二回目。三回目は、なんかさ、結婚するには重いんだよ、葵は、だった。
カオルの申し出はいつも決して納得出来るものではなかったけれど、葵は承諾し、そして彼がまた会いたいと言えば、つい、心が動いて会いに行ってしまう。その繰り返しだった。
最後のその言葉を聞いたときは、さすがにそれ以上ずるずるとつきあう気になれなかった。カオルは異性にだらしがなくて、いつだって葵の他に誰か第三者の介入があり、葵はそれに疲れ果てていた。
そして葵とカオルは別れた、また。
そしてそれから二か月もしないうちに、カオルから連絡が来た———また。
時生とは、知り合って四か月になる。ちょうどカオルから三度目の別れを切り出されたころに知り合った。すぐに一緒に暮らし始めた。そして程なく結婚を決めた。芸能人によくある、交際「ほぼ」ゼロ日婚だ。まったくのゼロ日ではなかったが、4、5日で決断した。ふたりとも親がいなかったから、誰の許可も要らず、誰からも反対されなかった。
彼とは一緒には寝るけれど最後まではしない。最初は驚いて泣いてしまった。そんな葵に、時生は、ごめんね、僕はそういうの、好きじゃないんだ、と言った。
言われた時はもちろん衝撃を受けた。交際ゼロ日婚を悔いたけれど、じゃあ別れたいのか、時生と離れて生きられるのか、と自問自答するたびに、やはり時生といたい、と思った。しばらくはめそめそしていたが、考えてみたらべつにそれ無しでもやっていけそうに思えた。むしろ、自分を性の相手としてしか見ていないカオルとの不安定な付き合いより、ずっといいと思うようになった。彼は浮気をすることはないし、心から葵を愛してくれている。それでじゅうぶん幸せだった。それなのに。
カオルから思い出したように連絡が来ると、葵も都合をつけていそいそと出かけてしまう。
カオルの身体は葵に馴染んでいた。昔から着ている服のように。
葵は寝息を立てる夫の横で、カオルの身体を愛する。真っ暗になると傍らにカオルがいると思うことのほうがよほどしっくりきた。カオルの愛撫のその順番を、帰ってから何度も反芻する。それに対して、罪悪感はなかった。
「しない」夫が悪いのだ。
気にしないようにしよう、その方が楽でいい、と思いながらも、結婚して性交渉もなく、当然子供も望めない関係は、次第に心を蝕んでいた。自分がよほど性欲が強く好色なのだろうか、自分のほうがおかしいのだろうか、それほどに女として魅力がないのだろうか、今しかない若い自分の肉体を、むざむざと放置して後で本当に後悔しないだろうか。なにより、生涯子供を産まないで本当にいいのだろうか、この結婚に意味があるのだろうか。
思考はぐるぐるとめぐるだけで、出口はなかった。
そして、ある日唐突に、眠れなくなったのだ。
葵は眠れない原因なんてどうでもよかった。というより、もうとっくにわかっていた。こんな状態、いいわけがない。それでも「原因」を取り除く気はなかった。時生ができないことを、カオルとする。ただそれだけなのに、自分の魂は知らず知らずのうちに傷つき、ずたずたになっていく。それを知りながら、このままの状況を維持したいとも思っていた。
不眠の時は、とにかく眠れるのならなんでもいい、眠らせてくれ、私を、と思う。そして過眠の後の脱力と絶望は、会社への言い訳を考える力すら失わせる。
最近、時生は帰宅が遅い。
このところ葵は夫に声を掛けることが億劫になっていた。眠れなくていつも頭がぼんやりし、時折重苦しい頭痛に襲われる。とても彼を気遣うこような余裕がない。それがいい結果にならないことくらい、わかっていても。
もともと、時生は家にいるのが嫌いなひとだ。休日もどこかしらに出かけていく。本を読むのも、家より図書館やカフェのようにたくさんの人のいる場所のほうが落ち着くのだと彼は言う。
バックパッカーだから。そう思っていた。時生は旅人だった。
その日、葵は彼が出かけたことを知らなかった。どこへ行ったのかも、いつ帰ってくるのかも知らなかった。
眠っていた。ことりと息絶えてしまったかのように。
そして時生は、ついに帰ってこなかった。
「眠る女 2」に続く
眠る女
目次【全10話】
第1話
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第7話
第8話
第9話
第10話
創作大賞というお祭りの片隅で、こっそり踊ってみることにしました。
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