言葉あれこれ #3
この世の推理小説をかき集めたら、いったいどれほどの人間が殺害されていることだろう、と思う。
推理小説の中では、犯人が憎悪や嫉妬、義侠心や復讐で人を殺めたり、辛い過去を背負っていて誰かを庇うためにやむを得ず殺害に至ったりする。さらには、サイコパスが愉快に連続殺人を犯したり、事故や正当防衛でうっかり相手が死んでしまってそれを隠そうと奔走したりもする。
とにかく人が死ぬ。
ボーイミーツガールで恋に落ちるのと同じくらいの頻度で殺人が起こってはたまらないのだが、ミステリの世界では人が恋に落ちる確率より人が死ぬ確率の方が高そうなのである。推理小説の世界には、探偵とその助手がいい感じになりながらも絶対くっつかない法則、というのもありそうな気がする。
古事記によると、黄泉の国の伊耶那美命は1日1,000人殺し、伊耶那岐命は1日1,500人産まれるようにすることを黄泉比良坂と中つ国の境界線で宣言している。
2022年の厚生労働省発表資料によると、1日に死ぬ人の数は3,750人、生まれる人の数は2,297人で、残念ながら日本は伊耶那岐命の言ったようにはなっていないようだ。超高齢化社会・超少子化社会に突入して久しい。
死因別には5位までに自殺は入っているが他殺は入っていない(自殺を自分を殺害する行為だと定義すれは日本ではかなりの殺人が行われていることになる。悲しいことだ)。2013年の時点で、他殺による死亡は1日342人。年々減っているらしいが現在の統計を探すことができなかった。結婚する人が1,436組なので、ボーイミーツガールが2,872人として、殺人が恋愛よりは少ないのは間違いないようだ。良かった。しかし、1日300人以上も他殺で亡くなる世界なら、これだけミステリがあっても仕方がないのかなという気もする。日々のニュースでも凶悪な事件が報道されるし、頻繁とは言えないがそんなに稀で遠い話でもないということだろう。
私はミステリがあまり好きではない。
なぜなのだろう。必ず殺害場面や遺体の状況などが説明されるからだろうか。原因はわからない。「誰が犯人かを捜しあてる」というものに、なんとなく乗れないのだ。一度犯人がわかってしまうと、何度も読むのが苦痛になる作品もなくはない。
密室、館など、それっぽい単語が出てくると「うわぁ」と思う。
わくわくした興奮の「うわぁ」ではない。
その「お決まり感」「設定感」「お仕着せ感」みたいなものへの、漠然とした拒否感のようなものがある。
キャラのたった変わった性格の探偵と常識的な助手。ダイイングメッセージ、ミッシングリンク、ミスリード。
そこを「読ませる」のが力量なのだろうと思うし、だからこそ、既に手あかがついたようなトリックが沢山あったとしても、こんなにもたくさんの作品が日々生まれ読まれているのだろう。確かに「おお」と身を乗り出して睡眠時間を削っても読みたい作品はある。
あえて言うなら、少し古いけれどコロンボとか古畑任三郎といった「犯人がわかっていて、どう犯罪を隠ぺいしたかを明らかにする」話が好きだ。アリバイ崩し、倒叙ミステリーというのだっただろうか。犯人側の視点から描かれていることが多く、多くは犯人のちょっとしたミスがアリバイを不成立にしてしまう。
また安楽椅子探偵ものもまあまあ好きだ。現場に行かずに話だけ聞いて犯人を特定する探偵。ホームズもそれに入ると聞いたことがあるが、私が昔読んだホームズは結構出かけていた気がする。「ミス・マープル」は読んだことがない。『謎解きはディナーのあとで』は結構好きだった。
ミステリ好きな人は、ミステリはこの世で最も面白いエンターテインメントだと言う。以前仕事で出会った人は読書好き&ミステリマニアで、おすすめを聞いたら色々と教えてくれた。コナン・ドイルやアガサ・クリスティーのような昔の作品もいいし、エラリー・クィーンやディクスン・カー、スティーブンキング、日本だったら松本清張、綾辻行人や東野圭吾、伊坂幸太郎に宮部みゆきに金田一少年やコナンくんまで、好きな作品全部、全部読んで欲しいなと熱く語ってくれた。特にその時ちょうど読み終えたという東野圭吾には熱い眼差しが注がれていた。もう20年も前だ。
どうも乗り切れないんですよねぇ私、と、私はだいぶ控えめに彼女に伝えた。「誰がどうやって人を殺したか」「犯人はこの中の誰なのか」を考えるのがたぶんあまり好きじゃないんですよね。同じ考えるのでも、詩や哲学書の方がいいかな、って。ミステリの殺人は「死」そのものについては考えてないじゃないですか、物語を成立させるためのただの手段となった「死」が、どうもだめ、というか。
いっぽう、私が詩の言葉が好きだというと、彼女は複雑な顔をした。詩は、いいとは思うけどよくわかんないですね。特に外国の詩は、その国の言葉の韻とかが面白いんだと思うけど、それって翻訳になるといまいちわからないですよね、と、確かにもっともなことをのたまう。とりあえず宮沢賢治や三好達治や金子みすゞや茨木のり子や石垣りんや谷川俊太郎を薦めてみたが、まあなんというか、お互い若干噛み合っていなかった。
そんなふたりを結びつけたのは意外なことにというべきか当然とも言うべきか「エドガー・アラン・ポー」だった。推理小説家にして詩人だったその人は40歳で不可思議な亡くなり方でこの世を去る。その人生の終わり、彼の死をめぐるミステリはいまだ解き明かされていない。長年打ち捨てられていたようになっていた彼の墓の惨状を新聞記事にしたのは詩人のハイネ。数多くの作家や詩人に影響を与えた人の話が、ようやくふたりの共通点だった。
とは言えふたりとも、昔の人すぎてポーの作品をまともに読んでいたわけではなかった。単なる話のきっかけだったのだ。「ミステリと言えばポーっていうじゃないですか」「古すぎますよ」「モルグ街の殺人ていうのが全集に入ってて、子供の頃読んで全然わからなくて。そもそもモルグ街っていうのがわからなくて。でも詩を書いてるって知って。なんか、『ポーの一族』だったかな。他の人のいろんな作品に引用されてたりして。どんな詩なんだろうと思って。でもなかなか探せなくて」「ああアナベル・リーですね。その詩書いた後死んだんですよね」と、ポーの謎に満ちた亡くなり方の不思議話にちょっと花が咲いたのだ。ぎりぎり、ロアルド・ダールでもちょっと話になった。恋愛ものも、2人とも活字中毒なのでそこそこ話したが、やっぱりちょっとだけだった。
彼女は何よりも本格ミステリについていろいろと語り合いたかったのだと思う。残念ながら私は役不足だった。東野圭吾なら、彼女の勧めてくれた『どちらかが彼女を殺した』ではなく『容疑者Xの献身』のほうが好きだった(お察し)。そしていろいろ教えたのにも関わらず私の反応が鈍かったためか、がっかりしたのだろう、職場を離れたらそれで交際も終いだった。
彼女はどちらかというとミステリのタイプは正統派好みのようだった。私が初心者だからと、あえてわかりやすいところからの話をしてくれたのかもしれないが。
ちなみに時代物・歴史物が苦手だという人に出逢ったこともある。今度は私の方が少しがっかりしたパターンだ。出てくる言葉や道具がわからない、という。岡っ引きや十手くらいはわかるが、行燈、火のし、行李、羽釜などになってくるとお手上げだと言っていた。役職や名前なども、漢字が5つも6つも続いたりして頭が痛くなる、と。時代劇も嫌い、と言っていた。最初から好きなジャンルを否定される気持ち、というのを初めて味わった。やっぱりちょっと寂しい。
なるほど。しかしこれは古い時代を描いた外国の小説の翻訳本にもいえるかもしれない。ジョージやメアリーならまだいいが、お爺さんがジョージ3世で孫がジョージとリチャードとかになってくるとだんだんよくわからなくなってきたりする。英語圏の名前でないとさらに馴染みが無くなり、フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフの物語になってくるともういけない。ドミートリイとその婚約者カチェリーナ・イワーノヴナ・ヴェルホフツェヴァ、あたりまではなんとなーく読んだ気がするのだが、アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ・スヴェトロヴァが出てくる段まで読んだことがない。これは『カラマーゾフの兄弟』で長い名前、と検索したら出てきた。使っている道具も、日本にはない道具だったりするとまずイメージするのが難しく註釈頼みになる。
ところでここまで書いて今気づいたが、歴史ものも相当数の人が死ぬ。むしろ時代を遡っていけばいくほど、ホロコーストや集団リンチのような事件ばかりだ。チェーストォ!という掛け声で知られる薩摩の示現流なんてとんでもない残虐さだ。一撃で脳天をかち割る。信長の比叡山焼き討ちなんて女子供一族郎党皆殺しだ。推理小説の殺人を「人が死ぬから嫌だ」というのは理屈が通りそうもない。しかもこれらは一応、事実とされていることばかりだ。歴史の流れの一場面として読むからある種のリアリティをもって納得でき、完全創作の殺人とは違うということだろうか。
そもそも、歴史はすべてがミステリ、と言えなくもない。定説とされていることでも、現代に残る資料や史料が必ずしも事実とは限らないからだ。諸説が存在し、そこに想像力を働かせる余地がある。
うーむ謎。歴史ものは良くて、ミステリが苦手な理由とは?
とにかくこればかりは、慣れという気がしないでもない。全く読んでいないわけではないのだ。好みと言ってしまえばそれまでなのだろう。
考えようによっては、生まれて死ぬまで人生そのものがミステリだし、私もきっと、慣れたらきっと、ミステリが好きになれそうだ。そんな気がする。
先日、Ryéさんとの企画でふたりで「アリバイ」をお題にミステリを書いてみよう、と話になった時は、心の片隅で「ほんとに私、書けるのかな」と心配になった。
チャレンジもチャレンジ、大冒険だった。なんとか苦心して書いた『Son alibi』は結果として、ミステリとはやっぱりひと味違う、ジュヴナイルものができあがってしまった。
Ryéさんの作品は、正統派のミステリだった。
逆に「ピリカ文庫」に書いた『朝顔サン』は、これもミステリではないが、ちょっと叙述トリックみたいになってしまった。意図したものではないし、これはやっぱり恋愛もの、だ。
すごく好きなわけでも、身の内から沸き起こる欲求があるわけでもないが、ちゃんと書けたことがないから書いてみたいミステリ。
果たして、書こうとして、書けるものだろうか――
――謎だ。もうこの時点で、謎。
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