アディクト #シロクマ文芸部
白い靴が、足首だけを連れて目の前を歩いて行った。靴底に特徴のある真っ白なスポーツタイプのスニーカーは、闇の中で蛍光色に光る。まるで踊っているような足取りで、スキップするように軽やかな歩行。
少女の切り落とされた足が赤い靴を履いて踊り続けるのはアンデルセンの『赤い靴』だった。その靴は足と共に踊り狂いながら暗い森へ消えたはずだ。
今目の前に現れた、あの白い靴と足は、いったいなんだろう。
つられるようにその足首と白い靴を追った。
少女がなぜ赤い靴に囚われたか。赤い靴が最初は彼女を幸運に導いたからだ。彼女は「赤」という色に良い印象を持った。それから彼女は、赤い靴を履いていると自分が魅力的に見え、他人の耳目を集めることを知った。そのうちに少女は呪いのかけられた赤い靴に執着し依存するあまり、彼女の世界の社会規範から外れ始めた。彼女は、次第に自分をコントロールできなくなっていく。養母の臨終に舞踏会に出かけ、葬儀にも赤い靴を履いた。しまいには、昼も夜も靴によって踊らされ、眠ることも食べることも出来なくなり、耐えきれず辿り着いた家で足を切り落としてもらうに至る。そして赤い靴は少女の足首を連れて、踊りながら去って行くのだ。
依存と中毒の果てに落ちた真っ暗闇で、血に染まった赤い靴はなお赤を極めて踊り続ける。
とすると目の前を行く白い靴も、足首の持ち主にアディクトされたものなのだろうか。その足取りは、スキップから次第にダンスステップへと変貌していた。軽やかでいて重量を感じる。取り憑かれた成れの果ての足首はもはや血の気もなく白い骨が見えている。この靴の持ち主は男性なのだろうか、それとも女性か。この足と靴は何処へ行くつもりなのか。それを確かめたくて、追っている。
白い靴は踊りながら何処までも行くようだった。そのスピードは速く、疲れを知らない。追いかけるこちらが疲弊し始める。バレエ、ワルツ、タンゴ、ムーンウォーク、フラメンコ、サルサ、タップ、ヒップホップ、ブレイキン。白い靴は多彩に華麗に踊る。踊って踊って踊る。狂ったように踊り続ける。闇の中で白く光る靴と骨。
そう言えばかつて自分も、ダンスに夢中だったことがあった。上を目指して必死に大会に挑み、人に囲まれ誉めそやされていつかは頂点に立つのだと思っていた。日々練習に明け暮れ、朝焼けも夕焼けもあの路上で逆立ちしながら見上げたものだ。
お気に入りのダンスシューズは、そう、白いスニーカーだったな。
そのことに気づいた時、ああ、あれはおれの足だったかと思った。切り落としたのは自分だった。踊る自分は踊らされていた。称賛を狂おしいほどに求める魔物に執り憑かれ、いつしか七つの罪すべてを身の内に備えると、魔物はおれを死ぬまで踊らせようとした。
おれは自分ではなく他人が誉めそやされるのを見るのが我慢ならなかった。権威に群がり、媚び諂い、ネゴシエートしたりコネクションを利用する人間が上に立っているのだと思い込み、そんな奴らが連んでおれを疎外していると思うと気が狂いそうになった。だいたい衆人が好きな踊り方が、おれは嫌いだった。おれの好きなことは誰にも理解されなかった。おれはおれだけが天才でおれだけが素晴らしいと思われていたかった。おれの踊り方、おれのダンスは他の追従を許さない。おれは誰からも求められ、中心に設えられるれるものであって、他人に評価批評されるいわれはない。おれこそがダンスのすべてを掌握する勝者なのだ。女は皆おれを愛し、崇め、おれを熱狂的に求める。それは当然で必然でそうでなければならない。どんな願いも自分の欲望を自覚して強く欲しなければ実現しない。欲しいものを欲しいと言うことから始まるのだ。おれは欲しい。トップを手に入れたい。貪欲に貪り喰らい、決して満足しない。ああ、おれは欲しいのだ、おれはおれはおれは・・・
立ち止まり記憶をたどるうちに、白い靴はおれの足首から先だけを連れて何処ともなく去っていった。靴と足を追いかけるのに疲れて果て、義足でとぼとぼと家に帰った。
小さな古い家は素朴な木造で、心から愛するファンクでポップなインテリアとは無縁の築五十年の日本家屋だった。ああこんな家に住んでいたんだっけなと、建付けの悪くなった煤けた茶色のドアの鈍色に錆びついたノブを回した。緩んだドアノブが手の中で頼りなく回ったが、何十年も棲んだ証のようにドアは軽く開いた。中に入り、真ん中にある女の乳首のような突起を押して鍵をかける。
どこか奇妙な家の臭いに慣れるのは一瞬だ。
三和土に白い靴はない。
やはりあの靴は、と思っていると、奥からカタカタと音がした。
この家に親兄弟以外の誰かと棲んだ覚えはないのだがと思いながら家にあがる。奥の部屋の障子を開けると、仏壇の前にふたつ置かれた骨壺を包む布の白が目を射た。兄ちゃん、墓に入れたいんだ、頼むから家に上げてくれよという弟の声がしたようで、身震いしながら首を振る。
音が止まない。
ゆっくりと頭を巡らすと、畳に置いた机の上のノートパソコンの前で、今度は両手首がキーボードをたたいていた。尺骨茎状突起の上で切り落とされた両手首は、アダムの家族の映画で観るように宙に浮いていた。比較的生々しい断面からはまだ少し血が滴り、骨は埋没している。
ダンスを諦めてからはSNSにその忸怩たる思いを吐き出していた。怪我によって踊ることを諦めた非業のダンサーには同情と共感が集まり、SNSでもまた称賛と承認の魔物がおれを待っていた。
おれは次第にスマホとPCが手放せなくなった。時には正義を振りかざし、時には攻撃的な文言で煽り炎上させた。仮面の饗宴を楽しむうち、投稿は10分おきになり5分おきになった。朝も昼も夜も、寝食を忘れ入浴もせず投稿とコメントに明け暮れ、親の臨終にも立ち会わず、なんとか葬儀には出たものの片時もスマホを手放さない幽鬼のようなおれを、弟はほとんど病人のように扱った。兄ちゃん、葬儀の間だけはおむつを履いてくれと言っただろう。それを聞きながらおれの指は「今おれの親がついに火葬場に入りました。かなしいかなしいかなしいかなしい」と入力し続けていた。
ついに辟易して人が離れ始めた。ネットの人間が離れるのはまさに蒸発、一瞬だった。たまさかのコメントも攻撃で、思いつく限りの悪態が書き込まれる。運営側からもひっきりなしに警告が届き、アカウントは停止になった。
俺はようやく自らのうちに巣食う魔物に気づいた。
しかし時は既に遅かったようだ。
どうやって、自分で両手首を切り落としたのだろう。いったい両の手首を自分で切り落とすなどということが可能なのか。
もう何も覚えてない。おれは果たして自由になったのだろうか。おれはどうしたら自由になれるのだろうか。
つと足元を見ると、あの白い靴を義足に履いていることに気が付いた。
なんだ、こんなところにあったのか。
飽くまでもおれを自由にはしないつもりなんだな。
おれはまた、宙に浮かぶ、かつて自分のものだった肉体の一部に目を移した。目の前でおれの手首は青白く色を失いかけている。
それでも指は、指だけは、いまだ狂ったように激しいダンスを繰り広げているのだった。
了
文フリ参戦のため締め切りに間に合いませんでした。
事前に出来上がっていたので投稿だけしよう、と思っていましたが。そしたらもう次のお題発表が目前に!
次のお題が出る前に、投稿いたします。