「好きな本」という奇跡
私がnoteをお休みしている間に、メディアパルさんのこんな企画がありました。
今回は参加できなかったな・・・などと思いつつ日付を見直したら、なんと期限は今週の木曜日までではないですか。
まだ間に合う――
とはいえ、何の心の準備もしていなかったので今、ちょっと焦って書いております。
好きな本について語る。
ご紹介の記事を拝見すると、みなさま、いろんなアプローチで好きな本について語っていらっしゃいますね。
私も、本が好きです。大好きです。
え?そんなことは知ってる?
そうですよね。確かに私、「みらっち」のプロフィール欄に「読むこと書くことが好きです」と書いています。そんな風に書く以上は、本が好きに決まってる。好きじゃなければ変です。
実は私も本を書いているんですよ。
え?それも知ってる?
そうですね。「吉穂みらい」のプロフィールにも「著作に『駐妻記』(2023年1月)。 『音楽のように言葉を流す』(2023年8月)」なんて恥ずかしげもなく堂々と書いてあります。全部kindle本ですので「本を書いた」とは言ってはいけないのかもしれませんね。「電子書籍を出した」と言い直すべきでしょう。
本は出しておりますが、私の本を「好きです」と言ってもらうことは、本当に「ごくまれ」です。ごくごく、まれーに、たまーに「好き」と言ってくれるかたが存在するのですが、いやもう、宇宙にひとりかふたりレベルです。
いただくことが多いのは「こんなに書くなんてすごいですね」という言葉です。「よく書くね」と言う言葉も多いです。量と労働に対して、労ってくださるのが圧倒的です。『駐妻記』と『音楽のように~』は、日常を描いたエッセイをただまとめたものですし、特別「捧腹絶倒エッセイ」「感動で全日本人が泣いた」というカテゴリのものでもないので、労働に対しての労いがあったとすればそれは大変な賛辞と捉えるべきだろうと、常日頃ポジティブに考えております。
いちおう、創作した「小説」というカテゴリに入るものも、kindle本で出しています。文庫化もしています。WEBでは立ち読みもできるようになっています。でも、こちらに関しては読者は、ほぼゼロです。今のところ、通算2名に「好き」という言葉をいただきました。宇宙でたったふたりでも「好き」と言ってくださる方がいて良かったなと思います。
kindle化したからといってあっちからもこっちからも「好き」が聞こえてくるとはまさか思っていませんでしたが、ひっそりと電子の棚に置いてみたところで「じゃあ読んでみようかな」と思うことは、普通に考えてまず、ないのだなあと実感しています。読まれないことにはとても「好き」まで行きつきませんし、読んだところで「好き」かどうかはわかりません。
変な話、読まれないことにちょっと安心して、次々とkindle化・文庫化しています。こっそり出しておくぶんには恥ずかしくないじゃないですか。奇跡的にkindleを覗いてみた人や、奇跡的に共同書店の棚でパラパラめくってみた人が、これならちょっと読んでみようかしらんと思ってくれるのであれば、それはまあ、レアな出会いということで。
それで何が言いたいかと言うと。
やっぱり、この世に出回っている本は、まずは「誰かがいいと思った本」であり(たとえば賞をとったり出版社や編集の人に認められたり)、そうやってある程度「質を担保されている」からこそこの世に出ているのであり、それだからこそのしっかりとお金をかけた「宣伝」があって、はじめて、私たちの目に触れ、手に取り、読んで「好き」と思うんだなということです。
「好きな本」は奇跡の上に奇跡が重なっていると思うのです。
今は商業出版されてもあっという間に絶版になり、著名な作家さんでもいちど流通から外れてしまった本は、よほどの幸運がなければ再販はされません。一度は「皆さんが好きになりそうな本です、私たちが選びに選び抜きました。さあどうぞ」と本屋さんに陳列された本であっても、そんな憂き目にあう本や作家さんが沢山います。そうやって人の目に触れ無くなれば、どんなに手間暇をかけてお金をかけた本であっても、忘れ去られ、流れ流れて図書館や古書店にたどり着きます。
そんな激しい流通の波の中で出会った、たったひとつの本を「好きだ」と思うこと。その中の言葉がずっと心に残ったり、1冊の本を大切にとって置いたりすること――それは、凄いことだなと思うのです。自分がいろんなことを試してみて、本当に心から、そう思っています。
私も、自分が書いた本を「好きだ」と言ってもらいたいなという欲望は、そりゃあ、あります。でも「これ面白いよ、読んでみ」と言われて「お、そんなに面白いなら」と読み始めることはあっても、その辺のおばちゃんが書いた本を「どれどれ読んでみるか」と読み始めてさらに「好き」という感情を持つのって難しいよなあ、と、これもまた、いろいろやってみて実感しています。「誰かが推薦している」とか「宣伝されていた」ということが、いかに重大なことか。
素人の場合は、やっぱり「知り合いだから」ということがすごく重要で、「あの人が書いたのならちょっと興味がある」とか「おつきあいがあるからクラファン的に」といわゆる義理と人情で、ということがとても多いように思います。それはそれで悪いことではないですが、やはり素人の本は「自己満足」が最も大きいファクターで、そしてそれもまた、意外とちゃんと味わえない感情だったりします。自己満足をちゃんと感じるのは、難しい。
好きになると、語りたくなりますよね。他の人にも読んで欲しいという気持ちがムクムクと沸き起こります。確かにじんわりと自分の中で温める「好き」もありますが、やっぱり「この作家さんの本、面白いんだよ」「こんなところが好きなんだよ」と言いたくなります。人の目に触れることが多ければ多いほど、そうやって紹介したくなる人も増え、本は売れるのだろうし、また、好きな本に出合える確率も上がるのだろうと思います。
「好き」と言う言葉は、本当に感覚的なもので、「これこれこういう理由があって好きです」なんて言うことは結構後付けで、「面白い」「よくできてる」「感動した」というようなことともまた別です。あっと驚くどんでん返しや、巨匠のテクニックに唸ることもあるし、新人とは思えない筆致にのけぞることもあるけれど、その本が「好きか嫌いか」は、技巧だけではない、と思います。
ところで私は、「好きな本を紹介してください」と言われるのがとても苦手です。先日も、共同書店の棚主さんの集まりで自己紹介、となった時に、当たり前のように「好きな本」を発表しなければならず、「ああ・・・そうだよね。だって本が好きな人の集まりだもの。当然、言わなきゃいけないよね」という思いに駆られていました。
みなさん、錚々たる作家さんや作品名を挙げられていて、ふむふむ、こんな本がお好きなのねと、そこでその方に対してのイメージが形作られていきます。挙げられるどの本も、ああそれ面白いよね、私も好きだなあ、その本は有名だけど読んでないんだよね、ほうほう・・・と思うし、自分もそれに準じなくてはと思うのですが、私は自分を表現するための「この本」というものが、いつも決められないのです。
結局私は、高校時代に自己紹介した時と同じように「決められないので今読んでいる本を言います」ということになります。それは私のベストではないのですが、自己紹介を聴いている方は、わたしを「その作家が好きな人」と認識するんだよねと思いながら、お話します。いやもちろん、その作家さんもその本も好きだけれどそれはあくまで「今読んでいる」だけなのです。
そしてまた、「私、この本が好きなんです」と言って、誰もが「イイね、その本」「さすが、読書家だけある選書」「読んでみたい」と思う「ある程度知名度のある本」というのはやっぱり、重要なことなのです。
誰も知らない本を「大好き」と言ったところで「ふうん」で終わってしまうので、やっぱりそこはインパクトが必要ですよね。
○○に影響を受けて、とか、○○は本当に素晴らしいとか、一度でいいからそういう自己紹介をしてみたい。でも無理みたい。好きな本が多すぎるし、影響を受けた本も多すぎます。少なくとも、私の脳みそはキャパが少ないので、多すぎると感じるみたいです。
好きな本があること、好きな本にめぐりあうことは奇跡——
いつか、私の本を好きだと言ってくれる人が、もうひとりくらい、増えたらいいなと思っています。密かな野望。でもそれは、奇跡の、さらに奇跡の、そのまた奇跡みたいなことですね。