不自然な恋と愛の証 ＃シロクマ文芸部
『桜、色っぽい』と背表紙に印字されたVHSが、兄の部屋の押し入れの段ボールの中から発見された。半透明のパッケージに入っているだけで、背を見なければそれとわからない。あらあら、と思った。
そういえば兄も男だった、と変なことに感心したが、その数が多く、そのうえ『桜、色っぽい』しかなかったので、少し不思議に思った。数えてみると、全く同じものが10本もある。出ている女優が好きだったのだろうか、と思うが、それにしても数が多い。
先日、60歳の誕生日を前に逝去した兄は独り身で、同じ市の川のそばのURに、URという名称になる前の団地時代から住んでいた。
病気が発覚して入退院を繰り返してからは、本人がだいぶ荷物を整理していたようだ。両親が既になく、兄と妹の二人きょうだいだったから、同じ市内と言うこともあって私も身辺整理の手伝いに来たことがある。そういえば押し入れだけは勝手に開けるなと言われていたことを思い出す。これがあったからなのか。やっぱり妹には見られたくなかったのか。
実は私は、割と最近まで、兄が亡くなるとは思っていなかった。
状態の良くない癌だということは知っていたし、経過も徐々に悪くなっていったのに、なぜかそのうち回復するはずだ、と、何の根拠もなく思い、そして独り暮らしはやっぱり心配だなと、退院して元気になってからのことばかり考えていた。正常性バイアスとはそういうものなのかもしれない。だから亡くなってしまった時は、本当に本当に辛かった。突然ではなかったのに、突然いなくなってしまった気がした。たったひとりの血を分けた身内だった。
なかなか気持ちの整理がつかなかったが、部屋は解約しないといつまでも家賃が発生してしまう。ようやく決心して引き上げに行った兄の部屋で発見したのが、そのビデオだった。いっそどんなものか観てやろうかと思ったが、部屋にはもう、ビデオデッキがなかった。
昔からその手の機器が好きだったし、歴代のレコードプレイヤーやCDラジカセ、ビデオデッキに至ってはベータ版が再生できるものも持っていたのに、なにひとつ残っていない。急速に寂しさが込み上げた。
まだ割と元気なころに、コレクションしていたアニメや映画のVHSやブルーレイディスクは全部売ったり捨てたと言っていたから、ということはつまり、兄は問題のこれだけを手元に残した、ということになる。デッキを手放した後も。
VHSは、外側から見ただけではわからないが、ほとんどが新品のようだった。販売していたのか、という疑惑が頭をもたげた。時代が変わってモノがモノだけに売ることもできず、売れ残りの処分に困って、結局残ってしまったのだろうか。
病気になるまで、兄には長く付き合った恋人がいたらしい。らしい、というのは結局生前一度も紹介してもらえなかったからで、ほぼ事実婚でかなり長い期間同棲していながら、病気がわかってから別れたとは聞いていた。
私はその話を聞いた時、最初はひどい女性だと思った。病気になった兄を見捨てるなんてと憤った。しかし、別れを切り出したのが兄だと知って、今度は彼女が気の毒だと思った。
確かに兄にはそういう、最終的には人を受け入れず、誰にも頼らないようなところがあった。自分では思いやりのつもりが、相手からは自分勝手と思われてしまう損なタイプ、ともいえる。さほど年齢も違わない、何年も一緒に暮らした女性が、いまさらそんな風に突き放されたらどう思うかということを考えるよりも、病気になった自分になど構わず、新しい人生を歩んで欲しいと思ったのだろう。そんな風に考える人だった。
兄からは、もう部屋には布団が一組と、捨てるものしか残ってないから杏子にまかせる、と言われていた。杏子とは、私のことだ。
亡くなる少し前、はい、とスマホを手渡された。連絡先が入っているという。見ると、兄が病気になってからも在籍させ続けてくれていた優しい清掃会社の社長さんと、元恋人の電話番号しか入っていなかった。これだけ、と思わず言いそうになったが、何も言わずに受け取った。
亡くなったことを連絡すると、社長さんは兄の同僚と一緒にお葬式を手伝うと言ってくれた。私と夫と娘、そして会社の人と元恋人が、兄を送った。
今回、最後の部屋の片づけには、元恋人が来てくれることになっていた。あの部屋を引き払う時はどうしても立ち会いたい、とお葬式の時初めて会ったその人は言った。兄より三つ下の、私と同じ年齢の女性だった。
彼女が来るより前に、このVHSの存在を知ってしまい、気まずかった。どうせなら、彼女と一緒に発見すればよかった。彼女はこの存在を、知っていたのだろうか。兄がこんなビデオを隠し持っていたと知ったら、しかもそれを最後に残していたと知ったら、ショックを受けるのではないだろうか。
インターフォンが鳴ったので迎えに出ると、兄の元恋人は所在無げに立っていた。私と同じ五十も半ば過ぎの年齢相応な姿形で、頭髪には白髪も混じっているのだが、特別若作りではないのに可愛らしく見える人だった。
「すみません、今日は無理を言って」
と、彼女は言った。いいえ、と、持参してきた簡易スリッパを並べて迎え入れる。彼女は神妙な面持ちで部屋に入ってきた。
しばらく当たり障りない話題やお葬式の時のことなどを話していたが、そのうち畳の部屋に出してあった段ボールに彼女が目を留めた。
「ああこれ」
と彼女は指さした。どうやら彼女が知っていることに安堵して、「ええこれ」と私も指さした。
「中、見ました？」
「うん、中に何が入っているかは見ました。その中身は観ていません。ビデオデッキもないので」
私の言葉に彼女は頷いて、スリッパを脱いで和室に入り迷いなく段ボールを開けた。光の中、埃が舞い散った。
「あると思ってました」
彼女は言った。
「最後は私が処分しなくちゃいけない、って思ってました」
それから決意したような眼差しを私に向け、言った。
「これ、私なんです」
「えっ？」
思わず声がひっくり返ってしまった。
「若い時、私、男の人に騙されてしまって。大学の先輩でした。付き合っていると思ってたのに、急に態度が変わって、無理やり。それを撮られてしまったんです。私あのころほんとうに子供で、どうしたらいいのか全然、わからなくて。同じく大学の先輩だった将人さんに話したんです」
将人は兄の名前だ。
「将人さん、あの頃恋人でもなんでもなかったんですよ。私、酷いですよね。学校からの帰り道で声をかけてくれた将人さんに、全部話してしまって。将人さん、その人のこと知ってたみたいで、その後、その人の家に乗り込んだんです」
思わず、げっと声が出てしまった。
直談判に行くなんて危険極まりない行為だったに違いない。
「その人、自分でビデオを撮って、編集もしないで焼き増しして、口コミで売ってたみたいです。学内でも陰で噂だったみたいで。将人さん、全部買うからって言って、元のビデオと売るはずだったものを、出来る限り回収したって言ってました。それで納得しないなら警察に言うって脅したって、自分にはそれしかできなかった、ごめんねって。誰かに売ってしまったものもあるかもしれないし、全部じゃなかったかもしれないけど、とにかくできる限り、回収してくれたんです」
そう言って、彼女は涙をこぼした。
「その後、その人別件で警察に捕まったって聞きました。私のところに警察が来なかったから、やっぱりビデオもこれで全部だったんじゃないか、って将人さん言ってました。将人さんは最初、全部私に戻そうとしてくれました。でも私、当時はそれを見るのも怖くて。将人さんが、気持ちの整理がつくまで箱に入れてガムテープで巻いて預かっとくから、って」
彼女はひとしきり、しくしくと泣いた。
「私、それ以来、男性が、というより人を信用できなくなって、生きるのが怖くなってしまって。精神科にも通うようになって卒業もちゃんとできなかったんです。そんな私を、将人さんはずっと見放さないでいてくれて。私も、将人さんだけは頼ることができて。おかげで就職もできて、なんどか結婚しようって言ってくれたんですが、私、自分の過去が将人さんや周囲の人に迷惑をかけてしまうかもと思ったら怖くてできなかったんです。でも、病気が分かったとき、急に別れようって。あわてて結婚したいって言ったら、病気だから結婚してくれるの、なんて将人さんに言わせてしまったんです。将人さんに、そんなことを・・・」
あとは嗚咽だった。
私も何も言えなかった。
兄と彼女の壮絶な四十年近い年月を思った。
「桜——本名なんです。名前、変えたんです」
しばらくして彼女は、段ボールの中からVHSを取り出して、タイトルを眺めながら言った。その顔は無機質で、当時のことと今が結びついていないような表情だった。確かに、兄のスマホに入っていた名前も、お葬式の時に記帳した名前も、桜ではなかった。無理やり撮影して本名をタイトルにつけるなんて、それを売ろうとするなんて、どれほど悪質な彼氏だったのかと思う。今で言えばデートDVやデートレイプに相当するのだろうか。重罪だ。
「桜さん、なんですか・・・」
私の独り言のような問いかけに、はい、と言いながら彼女は段ボールの中をごそごそ探していたが、ふと、あ、と呟くと1本のVHSを取り出した。
「将人さん、絶対観てない、って言ってたけど」
そう言って、VHSを私に差し出す。
「観てましたね」
そう言って、泣き笑いのような顔を向けた。
テープの巻きが他のテープとは逆になり、途中で止まっていた。
それから私たちは黙ってタイトル部分をはぎ取ったり、取れない場合はコンビニで買ってきたマジックで塗りつぶして、何かの儀式のような顔つきでビニール袋に入れた。それから、私の車で直接処分できるごみ処理施設に持って行った。
「お兄ちゃん、捨てようと思えば捨てられたのに。なんでこれだけ捨てなかったんだろう。私に捨てさせるなんて」
ビニール袋を所定の場所に捨ててからそう言うと、桜さんが、きっと、と言った。
「きっと私が、絶対に確かめに来るって思ってたんだと思います。私が自分で処分しなければ、まだこの世のどこかに存在しているんじゃないかって、疑い続けるんじゃないかと思ったのかもしれません」
そうかもしれない、と思った。
四十年余りの年月の間、捨てようとしたことは何度もある、と彼女は言った。ふたりでも、ひとりでも。にもかかわらず、捨てられなかったのだという。
「どうしてなんでしょうね。何十年も経って、VHSビデオからディスクになってからは、私はもう、あんなのタイトルだけ消せば普通に生ゴミと一緒にに捨ててもいい、って思うようになっていました。それなのにふたりとも・・・私たち、ずっと不自然な恋をしていたんだと思います。将人さんは、あれがあるから私が離れて行かないと思っていたようですし、私も、将人さんがあれをもっているから別れられないのかなと思うことはありました。お互いに、本心を探り合ってたみたいな気がします」
それからは桜さんは口を閉ざし、私たちは無言で団地に戻った。駐車場から部屋に戻る前に、なんとなく川沿いの道を通った。
将人さん―――
そうつぶやいた彼女の視線の先には、ふたりがよく散歩したという河原が広がっていた。早春の日差しが、そろそろ蕾の膨らみ始めた桜並木を照らしている。
桜さんは立ち止まった。横顔が追憶に持っていかれたまま、戻ってこない。
私はしばらく、春の風に吹かれて黙って立つ桜さんを見ていた。
不自然な恋。まるでビデオを人質のようにして、ふたりは繋がっていたというのだろうか。本当に相手が自分を好きなのか、それとも罪悪感や同情だけで繋がっているのか、疑い、探り合いながら、そばにいたのだろうか。
違う、と思った。きっと兄は、最初から最後まで、桜さんが大好きだったんだろう。病気を理由に別れたのは、ビデオによってそばにいてくれた彼女を解放しようと思ったからなのだ。兄はずっと、彼女が自分を好きなのかどうか、自信がなかったのだろう。そう思ったら、それまでなぜだか全く出てこなかった涙が急に溢れ、頬を流れた。
兄は兄なりに、彼女の秘密を守ろうとした。守り続けた。それが、不器用な兄の愛の証だったのだと思った。
了
「桜色」という綺麗なお題なのに、複雑な気持ちになる話になってしまいました。相変わらず長いですが、お付き合いいただき、読んでいただき、ありがとうございます。先週の「朧月」はすっ飛ばしてしまっていて、あれっもう「桜色」⁉と驚きました。今週もよろしくお願いします。
了