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言葉あれこれ #8 読むと書く

 とりとめのない言葉をつかまえておくことが出来ずに、このままだと明らかに三振なのだが、見送る――——そんなことが増えた。

 過去の作品を文庫化している。勢いでここまで来た。
 マイペースでゆっくりと、と思っていたが、その状況は、摩擦の少ない面をひたすらに滑っていくようにコントロールが頼りない。カーリングのように必死にブラシを動かして調整しているが、必ずしもうまくいっているとは言えない。
 
 今は人生の中で最大の、そしておそらく最後の、命を燃やす時だと思っているから、自分に薪はくべている。不安や恐怖があるわけでもない。強い願いもない。淡々と薪をくべている。そしてコントロールはともかく、ストーンは投げている。投げ続けている。それはまあ、よい。

 ひとつだけ、忸怩たる思いがあるとすれば、文章が下手になっていることだ。

 「読む」と「書く」を両立するのは、私には難しい。
 きっと器用にできる人も沢山いると思うから、一般論ではないと思う。飽くまでも私にとって、どうしても両立できないもののようだ。

 「読む」モードの時は書けないし、「書く」モードの時は読めない。
 そこに「作る」モードが加わって、どちらも中途半端になったが、どちらかというと「書く」ほうに重心がかかっていて、とにかく読めない。読めないこと自体はそこまで辛くないのだが、そのせいかどうか、私の中に蓄積している「かめの水」が今、徐々に減りつつある。

 甕があるのだ。そしてそこにいつもなにやら水っぽいものが溜まっている。水が無くなってくると文章が細る。言葉や文章は、何もないところからは出てこない。私はその水っぽい何かを、蜜蜂みつばちやハキリアリみたいに集めて貯めて、溢れそうなところを掬って文章を紡いでいたのだ。その水っぽい何かは、本や、音楽や、映画や、人や街や出来事から滴るエッセンスのようなもので、何かに触れて、そこに情動があって初めてじわり、と湧く。
 つぼみの中の朝露のように。

 「作る」は、過去の作品を「読む」ことで成り立っている。
 だから「読む」はしているのだが、それは機械的な製品チェックのようなもので、情動を動かしながらするものではない。朝露は湧いてこない。

 甕の水はおいそれとは貯まらないから仕方がないとしても、今ある水でなんとか体裁を整えている文章は、どうにもぎこちなく鯱張しゃちほこばっているし、それにこれは年齢のせいなのだろうか、いやそのせいにしてはいけないのだろうが、表現の重複、同じ言葉の反復、誤字脱字がとみに目立ち始めている。
 昔からの「癖」はもちろんある。それにしても最近の為体ていたらくは酷い。

 文庫化して、実際に作品が形になって、それを喜ぶ気持ちはもちろんあり、嬉しく思う。
 今私がこうして本づくりに邁進できるのも、両親が元気でいてくれるおかげだし、それを支えてくれている妹のおかげ、そして生暖かい目で見守りつつ好きなようにさせてくれる家族のおかげだ。
 本が出来たことや趣味を楽しんでいることを一緒に喜んでくれる友がいて、noteの世界にも応援してくれる人がいる。
 身体のどこも壊していないし、毎朝ちゃんと目が覚め、心臓が動く。
 感謝してもしたりないし、これ以上望むべくもない。
 今やれることをやる。それだけなのだ。

 過去の私の文章が、良かったというわけではない。ずっと修行の途中だった。でも目指す場所に到達しないうちに劣化していくのはとても苦しい。頑張ってはいる。頑張っているからこそ、その事実がきつい。私は賞味期限が切れそうな言葉を使って鮮度の低いものを提供しているに過ぎないのかもしれない。
 プロのアスリートではないのだから、そんなことは気にせずに楽しめばよいのだ、と思う。でもきっと、何かを――熟達や成熟と言ったものを目指している人はどこかで気づいてしまうのだと思う。

 老いと限界を受け止めて、「それなりに」進むしかないのだろう。
 若いことを殊更に称賛するつもりはないが、それでも若いうちだからできることは多い。特に肉体的な問題に関しては。脳もまた肉体のうちだ。
 
 何をするにしても遅いということはない、まだ何でもできると思っていた。でも、出来ないことを認めるのも、ひとつの成長なのかもしれないとこの頃思う。

 おそらく私には、もうできないことがある。
 年を取るということは、実に厄介で愛おしい。