秘密 #シロクマ文芸部
風薫、るり、と呼ぶ声がした。
ふたりが振り向いた時、そこにはただ、木があるだけだった。ご神木とされている、大きな欅の木だ。
五月の神社の空気は清明だった。欅の古木は少し身体を捩るようにして立ち、晴天に向かって腕を広げるかのようにして立っている。
「今、なんか声が聴こえなかった?気のせい?」
るりが小さな声で言う。彼女には今の声が、明確な言葉には聞こえなかったらしい。ふたりは立ち止まり、再び耳を澄ます。さやさやとした葉擦れの音だけが聴こえた。
るりの、グリーン系のチェックのスカートの下から伸びた細い足が震えているように見えた。無理をさせてしまったな、と思う。
るりを連れて来たのは、一緒に行くと言い張ってしつこかったからだが、断われば断れたのにそうしなかったのは、風薫の中に、ある微かな予感と期待があったからかもしれない。
「気のせい。声なんて聴こえないよ」
口では言いながら、風薫はるりから巨木に目を移した。
———いる。
風薫はいつもグレーのブレザーを着ているが、るりはブレザーは滅多に着ない。今日は半袖にVネックのベスト姿で、スタンダードとされている赤いリボンも身に着けていない。
式典の時以外はリボンを外す生徒が多い中、風薫は毎日きちんと、リボンを結んで登校している。その風薫のリボンが、ふと揺れた。
今、風は吹いていない。
「やっぱり、ほんとなのかな。琴葉の霊が出るって」
「さあ」
足の震えが声にとどいたようなるりの心細そうな声に、風薫は曖昧に言って、黒目がちな目を少し細めた。
塾が同じで、受験の苦楽を共にし、見事一緒に私立中高一貫校に合格した風薫とるりと琴葉だったが、入学してクラスがバラバラになった。中学の三年間、一度も一緒のクラスにはなれなかったし、高校に進学しても、同じクラスになることはできなかった。
先生たち、きっと交友関係把握してるよね。絶対、仲良しは離されるよね、と、放課後スタバで待ち合わせては同じクラスになれないことを嘆いたが、ひとりだけ違うクラスよりはいいかも、と言いあったりもした。
ところが、ある日突然、琴葉が学校をやめた。
高校に入学して半年。そろそろ文理選択をしなければならない時期で、来年は理系と文系に別れるからまた一緒のクラスは無理かもねと言っていた矢先だった。学校を辞める前に、ふたりには何の相談もなかった。家の都合だとか、不登校になりかけていたとか、噂は漣のように広がったが、誰も真相を知らなかった。
二年生の一学期が始まってから、塾の近くの神社に琴葉がいるという噂が立った。複数人が神社に入っていく後ろ姿を見たと証言すると、SNSで瞬く間に噂は拡散された。
「嫌なら来なきゃよかったのに」
るりの気を紛らわすために、声優が妖精のセリフを話すような口調で揶揄うようにそう言うと、
「いまさら、そんなこと言う?」
少し怒ったようなるりの目が責めるように風薫を捉えた。
「噂の神社に、ひとりで行かせられないと思ったんだよ」
「着いてきてなんて、私言ってないよ」
風薫は冷静に言いながら、ついに目の端に声の主をキャッチしていた。
やはり琴葉だ。さっきは欅の木の陰からこちらを見ている気配を感じたが、今はすぐそばにいる。
「シュッ」
瞬間、風薫の唇から、息とも声ともつかない音が発せられた。指ではそっと、印を結ぶ。
隣で怯えていたるりの面立ちが、急に変わった。
「風薫は、やっぱり見える人だったんだ」
そう言って隣に立つるりの表情は、懐かしい琴葉のものになっていた。
「家がね。そういう家で」
改めて琴葉に向き合い、そっけないような言い方で、風薫は言った。
「るりは普通の子だから、容れ物として無理がある。時間がないから率直に聞くよ。琴葉。もういないの?」
珍しく、語尾が詰まった。口をへの字に曲げて耐える。友達に、もういないの、と聞くのはとても辛かった。死んだの、とは、どんな霊にも聞かないようにしていた。礼節として。もし気づいてなかったら、ショックだと思うから。
琴葉は複雑な表情をした。朗らかで、いい意味で単純なるりが、こんな表情をするのは見たことがない。やっぱり琴葉だ。繊細で、その割に気が強くて、なんだかんだ言って面倒見が良かった琴葉。テストの結果に一喜一憂するるりを、励ましたり宥めたりするのはいつも、琴葉だった。
一緒に塾弁を食べた夜の教室を思い出す。塾の休憩は短いから、そんなに話はしなかった。でも、一緒だったから頑張れた。風薫が志望校を下げることになった時も、ふたりがいたから、ふたりと一緒に学校に行けると思ったから、あの絶望と後悔に耐えられた。
「ごめんね。学校辞めるとき、ふたりにちゃんと話、できなかったから」
「それが気になってたの?」
「そうかも。はっきりとそう思ってたわけじゃないんだ。ただ、この神社に、私たち、合格祈願に来たじゃない。みんなで合格出来て、ほんとに嬉しかったから、私」
「学校辞めた理由は言えない?」
琴葉は、うむぅ、と言いよどんだ。
そしてきっぱりと言った。
「知らん方がいいよ」
そうだ。琴葉はそういう子だった。説明が嫌い、とよく彼女は言っていた。説明するってことは、繰り返すことになるってことでしょ。辛い記憶を脳内によみがえらせたうえに、さらにそれを言葉にするなんて、二度も辛い思いをすることになるじゃない。それが嫌だ。めんどいし。そう言っていた。
辛いことが、沢山あった子なんだな、と改めてそう思う。
「私は、プロじゃないから、琴葉をどうこう、できないんだ」
まっすぐに琴葉を見てそう言うと、彼女は、あ、そうなんだ、と軽く言った。
「漫画みたいに格好のいいことができない。見えるだけの人なんだ」
「でも、るりを容れ物にはできるんだ?」
琴葉は背の高い子だったが、るりは小柄だ。下から見上げる琴葉の視線は初めてだなと思った。
「なんで、るりを連れて来た?」
琴葉は尋ねた。
「さあ。ついてきたから」
曖昧な理由だと、自分でも思う。彼女に黙ってひとりで来ることもできたはずだ。るりには琴葉が視えないのだから、むしろ連れてくる必要はなかった。かえって、怖い思いをさせたり、怯えさせたりするだけなのだから。
最初から依代にしようと思っていたわけじゃない。自分の技量で、そうできる自信もなかった。だけど―――だけど、そうなったらいいと思っていなかった、とは言えない。
「時間、無いんだから、素直になろうか」
琴葉は直截だった。風薫の頬が染まった。耳まで熱い。
「気づいていたんでしょう、私の気持ちに」
琴葉の、るりの、瞳が潤む。
「違う。それは・・・私の気持ち」
風薫の言葉に、琴葉の両目から涙がこぼれた。目の前の、るりの顔。でもそれは、琴葉だった。琴葉にしかみえない。
「やば。両想い、だったかぁ・・・」
琴葉が言った。その後は、言葉にならない。
ふたりは、静謐な境内でただ見つめ合った。
「やっぱり、あんまり時間ないみたい。るりが可哀そうだから、もう行くよ」
ほんの少し間を置いて、琴葉が言った。
耐えきれず、風薫は両手を伸ばす。琴葉の二の腕を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。
「好きだった、風薫」
肩のあたりで、琴葉がそう言った。
私も、という言葉を涙で上手く言えず、しゃくりあげたような声になった。
「来てくれて、ありがとね」
今さら。今さら、行かないで欲しいと思った。
るりのことも大事だけど、このままるりの中にいて欲しいとすら、思ってしまった。
思ってはいけない感情。それでも、止められない想い。
まだ高校生で、相手は女の子で。そこに寄せる気持ちは、とても柔らかく透明で、頼りなくてつかみどころがない。
だけど本当は、こうしたかった。琴葉を、抱きしめたかったんだ。
さよなら。
夢のようなその声を最後に、かくん、と、るりが全体重を預けたので、少しふらついたがなんとか抱きとめた。
行ってしまった。
やっぱ役立たずだ、と風薫は自分を責め、唇を噛む。
口寄せを生業にしている祖母ならなんとか出来ただろうか。琴葉をちゃんと、送ってあげられただろうか。今日のことを話したら、祖母からは相当きつく叱られるだろう。生半可な子供が、よその家の大事なお嬢さまを依り代にするなんてとんでもないことだと言うだろう。
「あ、あれ?」
急に意識を取り戻したるりが、慌てたように身体を離した。
「な、なんで?私、なんで?」
混乱しているるりは、自分の頬が涙で濡れていることにも驚いている。
「急にふらっと寄り掛かってきたんだよ。もう大丈夫?良かったよ、すぐ目が覚めて。熱中症じゃないかな」
取り繕うように早口でそう言うと、彼女はさらに驚いたように目を見開いた。
「えっマジで?今日、そんなに暑くないのに」
「緊張してたからじゃない?もう帰ろうよ。霊なんて嘘だったよ」
そう言うとようやく、るりは、風薫が泣いたような顔をしていることに気がついたようだった。
「風薫、も、泣いてるの?」
だって思い出したから、と風薫は言い訳をするように言った。
「三人で合格祈願に来たこと」
うん、私も思い出してたよ。あの頃、毎日一緒にいたね。受験辛かったのに、でもすごく楽しかったね。また会いたいよね。連絡先がわかったら、一緒に遊びに行きたいね。ディズニーとかさ。学校辞めただけで、死んだとか、霊だとか、やめて欲しいよね、ほんと―――
るりの朗らかな言葉が、琴葉に届いていればいいなと思った。
最初に琴葉の気配を感じた、欅の木を見る。
好きだったよ、琴葉、私も。
だからここに、良い思い出だけを置いておくね。いつか真実を知る日が来るまで、るりには、言わないよ。
「知らん方がいいよ」
またそよと吹き始めた風のあいまに、琴葉がそう言った気がした。
木肌を、下から上に見上げる。
万歳をしているような欅の向こうには、しんとした青空が広がっていた。
了
今回の「風薫る」、なかなかアイディアが浮かびませんでした。
なんとか間に合って良かったです。
部長、よろしくお願いします。