朝顔サン
ずらりと並んだ植木鉢に、如雨露で水をかけた。使いこんだ青いプラスチックの如雨露の腹に油性ペンで大きく書かれた園芸クラブという文字は消えかけている。日に焼けて薄い水色になり、ふちも少し欠けていたが、クラブ活動が始まる4年生から卒業するまで新品は買ってもらえなかった。
生き物係の選出には我も我もと手を上げジャンケンまでしたのに、みんな器用に水やりを回避して遊びに行く。それを尻目に、園芸クラブは怠ることなく毎日水をかけに通った。
どの学年も水やりは気の進まない仕事だ。強い日差しに双葉がしんなりするのが気の毒で1年生の朝顔にまで水やりをしていたら、いつのまにか「朝顔さん」という名前がついた。「朝顔さん」は、最初は少し意地悪な揶揄いが含まれていたのかもしれない。でもたまたまクラスの人気者が屈託なく「朝顔さん」「朝顔」と呼んだせいで、いつのまにか好意的な愛称に変わっていた。1年生から「朝顔さんありがとう」などと言われると思わず顔が綻んだ。
蔑称を愛称に格上げしてくれた少年は、常に光に包まれ注目を浴びる宿命を持って生まれてきたようだった。何をしてもどこにいても彼は目立った。そして誰からも愛された。彼が「朝顔、朝顔」と話しかけてくるのは嫌ではなかった。むしろ嬉しかった。クラスメイトからたいして相手にされない自分にも光が当てられるような気がした。
彼は自分もなにか違う名で呼ばれたいと言った。愛称で呼ばれることに憧れている、という。笑うとえくぼができるので、その顔が見たいあまりにクラスのみんなに聞いてみたらと提案した。まさかと思ったが、ある日の帰りの会で彼は本当に、僕に新しい名前をつけて欲しいと皆に願った。皆は大いに盛り上がり、彼に「サン」という名を与えた。サンは太陽と言う意味だと誰かが言い、本名も似ているからいいよねと誰かが言った。『もののけ姫』では女の子の名前だよと誰かが言ったが、かっこいいからいいじゃないとまた誰かが言った。一時の盛り上がりだと思ったが、彼のカリスマが「サン」を定着させてしまった。彼は自分を「サン」と呼んで欲しがったし、望み通りずっと「サン」と呼ばれた。
サンには昼休みともなれば人が寄ってくる。サッカーをしよう鬼ごっこをしようと引きも切らぬ誘いを断り、なぜか時々園芸クラブの庭に現れた。水道の蛇口をいっぱいに開いて、たぷたぷに水を入れた如雨露が重くなると、持ってあげると如雨露を奪った。いいよいいよと奪い返そうとしたら手が触れた。彼の手は濡れて湿って温かく、力強かった。
彼が「朝顔」と呼んだその日から、心に種は蒔かれていた。それでもそのとき感じた淡い気持ちを受け入れることは難しかった。だから封印した。気づかぬふりをした。それは難しいことではなかったが、しつこく粘着した。大事なノートに貼ったシールをいつでも剝がせると剥がさずにいたらもう二度と取れなくなったようなものだった。
中学を受験してサンは私立に行った。
道は分かれた。
彼は容姿に優れ親切で運動も勉強もできたから、隣にはいつも誰かがいた。相手はしょっちゅう変わったが、女子と仲良く登下校する様子はよく見かけた。
大学で再会した時も、彼は当然のように綺麗な女性を同伴していた。
うわ、朝顔だよね、と彼は懐かしそうに微笑んで言った。昔と同じようにえくぼがあった。サンかぁ、久しぶりと平気を装って答えた。
同じ大学に入ったのは偶然ではない。だが故意でもない。同じ大学に行きたいと願ったが、学力に阻まれるだろうと思っていた。同じ大学、同じキャンパスと知ったときは狂喜した。しかし探しに行くような真似はさすがにできず、偶然会うことを妄想し、遠くから見かけることを切望した。彼から声をかけてくるとは思いもしなかった。
今度一緒に飲みに行こうよと気軽に彼が言う。LINEを交換しようよと、SNSをやっているのと、彼女の前であまりに屈託がない。LINEだけは交換して、早々に彼から離れた。サンの眩しい光にすでに耐性が無くなっていた。
その夜寝ようとしたらLINEの通知が来た。サンだった。昼にLINEを教えてくれた時とアイコンが変わっていた。
朝顔だ。
それに動揺した。なんでなんで?と思う。
なんで朝顔?
トーク画面には、ずっと会いたいと思っていたんだ、今度ちゃんと会って話そうよという言葉に、LINEキャラクターのスタンプが添えられていた。返事をしようとした手が震えている。聞く気もなかったのに、昼間のは彼女?と指が勝手に動いていた。
ピコン。彼女じゃないよ
ピコン。でもこれからそうなるかな。わからない
ピコン。それよりいつヒマ?
彼からの吹き出しが増えていく。どうしよう、これ以上関わりたくない。嬉しいのに、恐ろしい。自分の気持ちが、恐ろしい。
ピコン。今、電話していい?
「ダメ、これから風呂」と送った。直接話すにはまだあまりに覚悟が無かった。そっけなくするのも悪くて「木金土はバイトだけどあとは暇」と大急ぎで送った。
ピコン。あー月水日はおれバイト
ピコン。明日火じゃん 明日!
ピコン。朝咲いた 朝顔
そう言って送られてきた写真は、庭に植えられているらしき朝顔だった。
ピコン。好きなんだ 朝顔
自分に言われた言葉ではないのに、心の中で悶絶した。気が遠くなった。こんな展開を果たして自分は、望んでいたのかいなかったのか。そしてアイコンは偶然なのだと理解した。今朝咲いた朝顔を撮った、気に入ってアイコンを変えた、それだけのことなのだ。
ピコン。小学校で水やり一緒にしたよな
ピコン。んじゃ明日ねー アキト
小学校ぶりに僕の名前を呼び捨てて、彼は太陽のイラストのスタンプを送ってきた。
この先、彼と関わるかどうするか、僕は決めなくてはいけない。友達と言う選択肢しかない彼の傍にいるのは、たぶん、拷問だ。
辛すぎる。
でも僕は——でも僕は、きっと彼を拒めない。
ピリカ文庫さんに、お誘いをいただきました。
もともと、いつか「ピリカグランプリ」に参加したいなあと思っていました。最初はただただ遠くに憧れて、時折作品を読ませていただく程度でしたが――
創作アカウントを作ったことで「やってみよう」という気持ちに弾みがつき、先日、ついに参加することができました。
嬉しかった―――!
「ピリカ文庫」は、憧れ中の憧れ。
グランプリに参加しただけの私のもとに「記事を書いてみませんか」というお話が来るなんて、思ってもみませんでした。
朝顔、というお題をいただいたときに思い浮かんだのは、源氏物語の、絶対に光源氏にいい顔しない「朝顔」と、万葉集の切ない切ない、恋の歌でした。共通するのは、自分の思いを秘める強い意志です。
朝顔はその身を全開にしてすべてを開示するような花なのに、その花を使って逆説的にとらえた日本人の心。面白いなあと思います。
今はいろいろな文章を書きたくて挑戦している真っ最中なので、今回もこれまでとはまた少し味わいの違うお話が出来上がりました。
ピリカさん、お誘いいただきありがとうございます!
「朝顔」でお話が書けて幸せでした。
願わくばどなたがひとりでも、お話を気に入ってくださる方がいらっしゃいますように。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。