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今年学んだこと

 今年私は「書く」ということを学んだ。
 というと、書いたものを本にして、書くためにnoteを始め、好きなだけ書いてきて、なにを今さら、と言われるかもしれない。

 「書く」は奥が深い。
 日本で教育を受けていれば、ほとんどの人が日本語の文字の読み書きができ、ある程度の文章も書くことができる。
 しかし「書く」はそう単純なことではない。

 ぺらりと白い紙と筆記具を渡されて「なんでもいいから書いてください」と言われた時の選択肢としては、「絵を描く」「図を描く」「(数)字を書く」「文章を書く」などが思いつく。書いて、とは言われたが「折る」「破る」「ひっかく(掻く)」と言う人もいるかもしれない。そんな中、「文章を書く」を選ぶ人は、結構、少数派なのではないか、と思う。

 たとえば「絵を描く」を選んでも、目の前の何かを写実的にスケッチする人もいれば、ファンタジックな頭の中の世界を描いたり、さらにそれを抽象的に表現する人もいる。旅先で食べた思い出の料理を描く人もいるかもしれないし、これから食べるメニューを絵にする人もいるだろう。

 人は自分を表現する手段をいくつも持っているが、どの選択をしても、「何を」表現するか、というのは人の数だけあるだろうし、その中に巧緻も存在する。

 読書が好きで、沢山の本を読んだ人は、自分も書いてみたいと思うようになるのではないか。私がそうだった。「読む」を重ねて、自分も書いてみたくなり、「書く」を始めた。
 確かに、多くの書物に触れるということは、豊富な語彙や文章表現に触れているということだ。学校の先生が本を読めとしきりに言うのはそういうことだ。小説家になるほどの能力までは要らないかもしれないが、本を読むことで自己を分析し表現するという就活はじめ人生の折々に不可欠な能力を養うことができる。

 読書経験の豊富な人ほど、文章が上手くなるのは事実だと思う。しかし、それまで「読む」を専門にしてきて、突如、書こうとしても、実は「書けない」。書いてみて初めて「書けない」ことを知る。それも事実だと思う。

 人称や時制が崩れる。言葉が重複する。言葉や文章の組み合わせがパターン化する。「かぎかっこ」だけで物語が進む。始めることができても、終わらせることができない。あらすじだけで終わってしまう。細かい描写がうまく書けても、次のシーンとの整合性に欠けている。決めたプロットが途中でなし崩しになる。設定があいまいで、途中で後付していくと筋を見失う。登場人物の造形が不安定。そもそも「何を書きたいか」(テーマ)がない、テーマがあってもそれを表現する言葉が自分の中にみつからない・・・などなど枚挙にいとまがない。

 いきなり壁にぶつかる。

 しかし、ぶつかるのが当たり前で、ぶつからなければいけない、と思う。
 もちろん、急激にコツをつかめる人もいるし(これはやはり、多くの書物を読んできた人は強いと思う)、いつまでもコツがわからず苦しむ人もいる。どの世界にも天才が存在するように「天性の感性」を持つ人はいる。当たり前だがそれはごくひとにぎりだ。
 とにかく、どれほど大量の本を読んでいても、書こうと思ってすぐに書けるわけではないことは、断言できる。そして「書けないもんだな」と気がつける人は幸いだ、と思う。「批評家の目を持つ」読書家であればこそ、気がつけることだと思うからだ。

 小論文の書き方は教わっても、小説の書き方は学校では教わらない。
 小説の書き方講座、などが存在するのはそのためだ。

 小説を書き始めた10代のころ、私の「ひな形」は、純文学ではなくエンタメだった。ただ思いつくことをがむしゃらに書いていた。アイディアが閃くと書き始めるのだが、「出だし」だけがごろごろ転がり、とにかく終わらせることができなかった。
 「終わらせる」ことは本当に難しい。今でも難しい。ラストシーンを決めていても、そこにたどり着かない。もしくは、カタルシスのないラストシーンにしかならない。ダラダラした「ただの話」に終始してしまう。

 あ、こりゃ駄目だな、と思った。
 小説って、感覚だけで書くものではないんだ、と知った。

 それからは、精神と時の部屋に入った。修行の日々だ。
 一人称で書いた作品を全部三人称で書きなおしたり、ある「場面」を何パターンか試したり、書いたり消したり、キャラクター設定書を作ったり、相関図を作ったり、プロットの代わりに「詳しい目次」を書いたり。データ保存になってからは「ゴミ」フォルダに書きかけの小説が山のように溜まった。文体に関しても、短文を組みあわせる、句読点無しの文章にする、などなど、まあ、いろいろやった。「文豪の小説丸写し」などを推奨している人もいるが、それはしたことが無い。でもそれもいい方法なのだろうと思う。
 私のやり方はただひたすら「書いてみる」、だった。
 まったく効率的ではないからおすすめはしない。

 私の書く小説は文体がとても軽く、いわゆる「ラノベ」に似た小説の書き方をしているが、これは試行錯誤の結果、自分にしっくりくる文体を探し当てたからだ。文章の美しさや芸術を追及する純文学とは方向性が違うかもしれないが、何の努力もせずに思い付きで気軽に書いていると思われるのはちょっと心外なので、いちおう、書いておく。
 などと言っていながら、自分の文章や小説がまだまだであることも自覚している。でもそれでいい、と思う。「自分の文章は完成している」と思う文章書きは、やはり何かが足りていない、と言うしかないと思うからだ。自覚的であればあるほど、自分には厳しくなるのが当然で、だからこそ、文章修行は永遠に終わることが無く、だからこそ、面白いのだと思う。

永遠の未完成 是完成である by宮澤賢治

 そしてまた「書く」は「読む」に立ち返らせてくれる。

 私の場合、書き始めてから「読書が足りない」ことを痛烈に感じた。中学・高校まではそれなりには読んでいたけれど、早熟なほうではなかったから、ロシア文学をはじめ欧米の文学は難しく感じた。大人の機微をわかったふりができなかった。引っかかってしまうと先に進まない。とにかく「質」が全然足りなかった。手あたり次第に本を読んだが、質を確保できていたかは怪しい。
 「小説の書き方」みたいな本は、そういえばあまり読んだことがない。たぶんベーシックな部分は実践してしまっていたのだと思う。
 私に特に足りなかったのは「人に読んでもらい、意見を聞く」ということだったが、自分にとっての小説は内省や内観の手段だったから必要と感じたこともなかった。今となってはそれが良かったのか悪かったのかわからない。50歳まで放置して拗らせたのだから悪かったのだろう。

 高校を卒業するときに、高校の国語の先生から「これだけは読んどけ!リスト」を渡されたのだが(なぜか高校の現国の先生には目をかけてもらった)、そこにあった『チボー家の人々』と『醜女の日記』は読んでいない。
 先生のリストは、なかなかシブい選書だったと思うのだが、他にリストアップされていた本は読んだのに、何を読んだか忘れてしまった。ミミズが這うような字で書かれた先生のメモは引っ越しのどさくさで失くしてしまって、そもそも、『醜女の日記』を読めとは、私に対する嫌味だろうかと心の隅で思っていたのも事実(持論だが、現国の先生は字が綺麗じゃない人が多い。古典の先生は字が綺麗だった。誰かぜひこれを検証して教えて欲しい)。

 読まなかった本だけ覚えているのが面白いなと自分でも思う。人生の節目に「読もうかな」と思って探したりもしたが、今は「読まなかった」ことに価値があるような気がしてきている。あ、こういうことがエッセイのネタになる。独立したエッセイにすればよかった。

 ただ、時々思うのは、「年間〇十冊(〇百、〇千)読んだ」という「数」は、あんまり関係ないんじゃないかな、ということだ。読書体験と言うのは、あくまで質だと思う。読書体験と同等のクオリティーの体験を実生活、動画、映画、様々な媒体を通してする人もいる。どちらもその人の血となり肉となり知識になり思考や思想になることならそれでいいし、文学作品だけが「質」を担保しているわけではないとも思う。

 どちらにせよ、今の私は、「書く」と「読む」のバランスが非常に悪い。バランスが悪いというよりも、「本を作る」という斜め上方向に力を注いでいるため、あきらかにどちらも欠けている状態だ。それでも、「青音色」という同人誌サークルに参加して、作品をひとつ仕上げ、それが出来上がったことで、またひとつ、自分の中の価値観が変わっているのを感じている。

 現在、noteのような「文章に特化したSNS」もあるし、文学フリマも盛況とくれば、読む人口に比して書く人口が明らかに増えているであろうことは想像に難くない。「書く」を競い、磨き合う場も多く、「公募ガイド」などを読むと、日本中にこれほどの公募があるのか、と驚くほどだ。

 私は公募に応募したことが無い。ずっと自分には無縁のものだと思って生きて来た。「公募に応募=作家になる」だと思っていたので、そんなおこがましいことは自分にできるはずもない、応募する資格もない、と思っていた。

 noteを始めてから、「公募=締め切り」という考え方があると知って驚いた。公募の「〇月〇日まで」という締め切りを自分に設定することで、小説を完成させるという練習。確かに、「〇月〇日まで」「原稿用紙〇枚」「〇万字」という「区切り」があることで、「書く」にメリハリができ、進捗もしやすくなる。そんな向き合い方があるのかと、目から鱗だった。

 今後、公募に応募するかどうかはわからない。勝手に本を作っている以上、無冠だとバカにされてしまうのかな、と思ったりもする。その一方で、商業出版しているわけではないし、「趣味の人」が何を書こうと、この世の大多数の人にはなんの関係もないだろう、とも思う。

 今年は創作大賞で悲喜こもごもの思いも味わったし、note内の企画であるピリカグランプリでも、2度の文学フリマ出店でも、「書く」ことに対してずいぶん沢山の知見を得た。

 過去に書いた作品を、ひたすら文庫本にしているのは、中学の時から私の作品を読んでくれているサトちゃんのたっての願い、だった。でもこれは自分の老後の楽しみのためでもある。いや、本になって自分の本を読むのが単純に楽しい。だからやっている。
 そのいっぽうで、今書けるもの、今こそ書きたいものを書くことに挑戦したいとも思っている。
 そのためにまた、本を読みたい、という渇望ににた気持ちも湧き上がってきている(ただし若い頃のようにはいかないだろうとは思う。目が、目が・・・!byムスカ)。

 思うさまに書き散らしてきたが、自分の中の、内なるものと「書く」ことが結びつき、また新たに一歩踏み出そうと思えたこと。
 それが、今年の学びだった。