RAIN #シロクマ文芸部
『雨』を聴くためにその店を訪れた。
21時からしか開かない店。お酒と音楽だけを提供する店。
水の匂いがする。
夜を待って新宿に向かう電車の中では、東京事変の椎名林檎の声が頭の中で鳴り響いていた。「新宿は、豪雨」。確かに今、新宿にいるが、豪雨ではない。でも傘は持っていた。傘は持っていたが、次に頭の中に浮かんだのは井上陽水『傘がない』。
行かなくちゃ
きみに逢いに行かなくちゃ
雨に濡れて行かなくちゃ
傘がない
「古いけど良い歌だね」
店の前にいた年齢のわからない男性が突然声をかけてきたので一瞬怯んだ。今も昔も変わらない力のある眼をしている。前髪の長いさらさらの黒髪。ぴったり足に張り付く黒いパンツ、そして黒いシャツ。人生のどこかの時間に自分を置き忘れてきたような、ロックな男。でもそれは、子供のころに読んだ古い漫画に出てきた、蠱惑的な悪魔の姿のようでもあった。
「わたし、歌っていましたか。それとも、わたしの頭の中を覗きましたか」
そう尋ねると、彼は笑った。笑うと優しい顔になった。
その時ついにぱらぱらとふたりに雨が落ちた。暗いから最初は雨だと気づかなかった。
「夜中には止む」
と彼が言った。
わたしたちは連れ立って階段を降り、店の中に入った。店に入った瞬間、別世界の音と匂いがした。演奏されていた曲は『I Think It's Going To Rain Today』、ノラ・ジョーンズ。歌っているのは誰だろう。ジャズアレンジが効いている。もう降り出したよと、男は別の客に言った。知り合いなんていたんだと思った。
客は満席に近かった。しかしまだ座る場所を選ぶことはできた。薄暗がりで、二人掛けのスツールに並んで腰かけ、彼は何かを注文した。何かは聞こえなかった。わたしはシャンパンを頼んだ。さっき男が「夜中には止む」と言ったから、連鎖反応的にシャンパンを頼んでしまった。カエルの面にシャンパン。喧嘩もディープキスも、わたしにはただ憧れの遠い御伽噺。
わたしたちの後に入ってきた女性の二人連れはすっかり雨に降られてずぶ濡れだった。彼女たちはそろって髪が長く、スレンダーで美しかった。コートを脱いだら身体にぴったりしたレディ・ガガのような奇抜なドレスで、露出した肩や腕や胸に濡れた髪が張り付いてにエロティックだった。人魚姫みたいだと思う。ヴァイオリンとハープが響き渡り、NOKKOの『人魚』が始まる。
「本当なんですね、雨にまつわる曲だけというのは」
隣の男に寄り掛かりながらそう言うと、彼は厳しい視線を緩めて何かを飲んだ。彼が何を飲んでいるのかわからない。
大人な雰囲気のライブハウス。刹那に、ドラムのリズムが響いた。続くギターとベースとサックス。はっとしてステージを見る。
「歌っているのは誰ですか。どう見ても本人なんですが」
涙が出そうになった。生涯に一度でいい、彼のステージを見てみたかったから。
「本人が歌える時は歌うんだよ。本人が無理なら、君が望んだボーカルが歌う。そういう決まりだ」
それからは、古いものも新しいものも、洋の東西を問わず雨にまつわる曲が演奏された。知っている曲ばかりで退屈しない。最初は夢中になった。楽しい気持ちだった。でも次第にわかってきた。ステージで歌うボーカルは皆、この世にいないということが。そして隣の人は、よく知っているのに知らない人だった。少なくともわたしは彼を知っているが、彼はわたしを知らない。
少し寂しくなって、
「雨の歌って、こんなにあるんですね」
そう、話しかけてみた。すると彼は微笑んで、歌ってくる、と見惚れる動作でステージに上がった。
ああ彼は、憧れだった。青春が彼とともにあった。
自分が人生の最後に願ったのは、こういうことだったのか。
「そろそろ」
とわたしは誰にともなく言い、スツールから立ち上がった。ステージでは誰かがSEKAI NO OWARIの『umbrella』を歌っていた。
いつステージから降りたのか、隣には彼がいる。
「あなたは、わたしのそばにいたんですね。ずっと長い間。わたしが全く自由でないときも。囚われていたときも」
差し出された腕に手を添えて歩き出す。誘われるままライブハウスの奥に進み、非常口の緑の光を頼りに歩くと、裏口なのか表なのかわからない古ぼけたドアが見えた。
「もっと自分の思うままに生きればよかった。できるときには好きなことをすればよかった。心のままに」
スポットライトのような電球色の小さな灯りの下でわたしがそういうと、見る間に彼は、そこに貼られたポスターの人になった。17歳の時のわたしの部屋に、長い間貼られていたあのポージングで。RAIN、という文字がゴシック調の文字でデザインされ、配置されている。
振り向くと鏡があった。鏡には、ポスターの彼が左右逆に映っている。RAINの文字も鏡文字だ。
わたしは映っていなかった。umbrellaの曲の歌詞のように。
鏡に映る私は透明だった
分かってた事
でも知らないままの方が良かった
操作不可能なプレイリストのように音楽はステージからただ流れてきた。私は鏡の中の彼を見つめながら立ち尽くした。
不自由だった思春期。トキシンな親との関係に疲れ、友人もうまくつくれず、地味で賃金の低い仕事に就いたわたしは、いつかなにもかも諦めた。
願えば叶う、と、快活な友人がわたしを誘い、スピリチュアルな世界に溺れて我を失い、気づいたらひとりだった。
わたしはわたしがなかった。
分岐点があるとすれば、あの日。
はるかはるか昔の、あの日。
わたしは彼のライブに行こうとしていた。山に囲まれた地方の街から、一番近い都会に彼が来ていた。ファンクラブに入っていたけれど、学校を休んで必死に電話をかけてチケットを手に入れた。「RAIN TOUR」という名の、全国ツアーライブ。
くだらん、くだらん、くだらん。
父親はわたしを殴った。
お父さんに謝りなさい。こんなことをして、恥ずかしくないの。
母親は父親の言いなりだった。
こどもは、わたし、ひとり。他人は溺愛と言ったが、それは戦慄するような、肉に鋼の鋲が埋め込まれたうっとおしい檻だった。
なにが「恥ずかしい」ことなのか。ふたりの言うことが全く理解できなかった。彼らはわたしをただこどものままにそばに置き、愛玩した。こんなに愛しているのに。こんなに大切にしているのに。彼らはいつも、そう言った。
泣いて懇願したのに、チケットは破り捨てられた。
わたしは制服のまま裸足で家を飛び出し、雨の中を駅に走った。
行きたかった、生きたかった、あの日。
すべてはわたしのわがままだと言われたわたしは、その後も家族とともに暮らし、ただ音楽を友とした。雨の日が好きだった。雨の曲が好きだった。雨の日なら、きっと誰だって家で音楽を聴くだろう。私も他の誰かと同じようでいられる気がした。
好きなことはみんな最初から期待しないことにした。仕事に期待するのも、友達に心を寄せるのも、異性を好きになることも、だからしなかった。
母を送り、父を送り、気づいたらわたしの身体は静かに肉の衣を纏い、肌は何も言わずにくすんでいた。老廃物と取り戻せないものばかりが、わたしの荷物になった。
きっと望めばできたことはあった。
スピリチュアルのセミナーに呼び込むためだけにわたしの友になった、あの朗らかな人がわたしに言ったように。
願いはかなうの。強く願えば、あなたが望む世界に行ける。
そうだったのかもしれない。
そして今夜は雨。
わたしはひとり、あの日の『雨』を聴くために新宿行きの電車に乗った。
―――そんな夢を、みていた。
ああ音が。音の洪水が。
消えていく。
わたしは老いた手をドアにかけた。
この向こうが、土砂降りだとしても、雨上がりだとしても。
わたしは運命という雨に抗えなかった。
ゆっくりと、ドアを開ける。
その時微かに耳に届いたのは、虹の歌、だったかもしれなかった。
了
こちらの記事の妄想部分を出そうかとも思いました。笑
古くて新しい超アナログなプレイリスト
東京事変「群青日和」
林檎の雨と言えば他にこちらも。椎名林檎「闇に降る雨」
井上陽水「傘がない」
言わずと知れた名曲
キリンジ「雨をみくびるな」
キリンジは雨の歌がいっぱいありますね。
今回調べたら知らない曲が続々と出てきました。キリンジは雨が好き。
ノラ・ジョーンズ「I Think It's Going To Rain Today」
ノラ・ジョーンズは雨の日に似合います
NOKKO「人魚」
アカシアの雨に・・・今もこんなに歌えるNOKKO
RCサクセション「雨上がりの夜空に」
もはや、神。
BUCK-TICK「RAIN」
私の青春はむしろブルーハーツでしたが、この物語にはやっぱり櫻井敦司さんが似合うと思って。追悼の気持ちも込めました。
この曲が発表された年代とこの物語の「老人」は年代が合いませんが、「RAIN」というタイトルの名曲は、たくさんあります。あなたの「RAIN」で。
SEKAI NO OWARI『umbrella』
ドラマの主題歌だったようなのですがドラマを知りません。
単体で素晴らしい曲。
L'Arc~en~Ciel「虹」
最後の「虹」の曲は、いろんな曲を思い浮かべる人がいると思ったのですが、私は何となくラルクアンシェル・・・虹だけに。
雨の曲が沢山あって、どれをピックアップするかとても迷いました。カラオケでは森高千里の『雨』をよく歌っていたし、ユーミンも雨の歌の宝庫。80年代の歌謡曲はすごい量!『瞳はダイアモンド』『駅』、演歌でも八代亜紀さんの「雨雨ふれふれもっとふれ(『雨の慕情』ですね)」もあるし、『氷雨』もある。90年代、2000年代、2010年代ともなれば数限りがありません。スキマスイッチの『雨待ち風』も捨てがたかったし、スピッツの『楓』『あじさい通り』———スピッツも雨多いかも。ロックといえば「エンドレス・レイン」も外せないと思ったのですが、今回は入れず。諦めた曲が多すぎます。そしてなんといっても「雨の日にはビリージョエル(by原由子「私はピアノ」)」です。笑
ピアノマンは老人が若い頃を懐かしむ曲ということもあって、こんなお話になったとさ。
ときたら藤井風さん。デビュー前のこのころの彼は色気がヤバいですね。
『悪魔の花嫁』はトラウマ級のホラーの名作。
ルシファー=堕天使、というのをこの漫画で覚えました。韓流ドラマではないですが、だんだんデイモスが素敵に見えてくるんですよね。最終回を知りません。また読もうかな。
追記:投稿してから、そう言えばこの曲が大好きだったことを思い出しました。
ELO(エレクトリックライトオーケストラ)「Rain Is Falling」
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