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言葉あれこれ#19 ノイズ

 文化庁の「国語に関する世論調査」によると、月に1冊も本を読まない人がついに60%を超えたそうである。

 「活字離れ」とは言い切れない。というのは、これまで人々が「読書」をしていた時間にしていることが「スマーフォン」だからだ。ゲームや動画の視聴もあるが、スマーフォンでネット記事を読んだりしている場合もあるから、必ずしも活字離れと言い切ってしまえないのだそうだ。

 この話題に絡めて、とあるテレビ局で、現在ベストセラーというこちらの本をあげ、著者が番組に出演していた。

 著者の三宅さんが言うには、いまや「読書」は「自分が知りたい情報」をピンポイントで求める人々に「ノイズ」として敬遠されているのだという。
 読書には自分が知りたい情報だけではなく、別に知りたくもない余計な情報や知識がついてくる、というのだ。それが「ノイズ」らしい。

 著者自身は読書が大好きで、「週5働いていては読書ができない」と、読書をするために仕事を辞めたらしい。いきなりネタバレしてしまうことになるので著者の具体的な論旨と提言については割愛する。個人的には著者の提案のすべてには頷けないと感じる点もあったが、本そのものはとても興味深かった。読書が「ノイズ」となっているということは、まさに目から鱗だった。なるほどなと膝を叩いた。

 私は普段あまりテレビを見ないのだが、たまたま一緒にテレビを見ている時、息子はひとつの番組を全部視ることがほとんどない。途中で友だちとLINEで会話したり、他の動画を見始めたり、自室に行ってしまう。たとえ彼が好きな女優さんが出ていても、である。番組のすべてが、自分が求めているものではないものだからなのだろう。むしろ、最近のバラエティ番組は動画の寄せ集めのようなものが多いので、バラエティを最後まで観ることは、稀にだがある。

 それを見て私自身は、なんとなく苛々していた。見始めたら最後まで見たらいいじゃないか、という気持ちが私の中にわだかまりとしてあった。

 昭和時代のように家族全員で同じものを見ろと強要する気はないが、息子世代が、自分や自分の興味関心に関係ない情報を排除しようとする傾向にあるのは確かに感じている。それに「今見なくてもどうしても見たかったら、後でYouTubeや配信サービスで観ればいい」と思っている節がある。「今見なければ」という「今」に価値や執着がない。誰かと共有したいとか、そう言う気持ちもない。

 子供のころから、息子は図書館を回遊しない。
 なんらかの筋からキャッチした情報(誰かがいいと言ったとか、課題図書だとか、授業で紹介されたとか、問題文だったとか)をもとに、これと決めた本を検索してその棚に行き、その本だけを借りる。
 図書館は、ぐるぐる見て回って、手に取って戻して、また回って、思いがけない本を見つけて、知らない本との出会いがあって・・・というのが楽しいのに、と何度言ったかわからない。そのたびに、なんでそんな無駄なことするの、という言葉が返ってきた。残念だった。

 そんなことをつらつら考えていて、「ノイズ」とリンクしたことがあるので、今回はそのことを考えてみたい。

 ひとりで創作しているときには気が付かなかったのだが、SNSで創作を投稿するようになり、自分の書いたものが人の目に晒されることが多くなって気が付いたことがある。

 作家と作品の距離だ。

 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだとき、もしかしたら、「読書のノイズ」のひとつはこれかもしれない、と思った。

 エッセイは、著者の体験したエピソードが肝になるので作者と作品の距離が近いか、同一であるのがデフォルトだ。「ノイズ」だとしても「安定したノイズ」だと言えるかもしれない。

 しかし小説となると、「主人公は作家そのものなのか」「作り出されたキャラクターなのか」「実話なのか」「創作なのか」と、作家と作品の関りが必ずしも一定せず、情報の不協和音を醸し出す要素が多い。いわゆる「不安定なノイズ」だ。
 そもそも「フィクション」が嫌いで、「ノンフィクション」にしか興味がない人もいるから、そう言う人には「書いたもの=作者の知識や体験」、ということ以外はすべて「ノイズ」であろう。小説など論外である。

 私たちはこれまで、基本的には商業出版され書店に並んでいるプロの作品を多く読んできたわけだが、文学フリマで売られている同人小説や小説投稿サイトやnoteなどの文章SNSなどにより、数年前、十数年前よりはるかにたくさんのセミプロ・アマチュアの作品を読むようになっている。

 言ってみればこれまでの小説は「選ばれしもの」「著者来歴がはっきりしているもの」が大前提だったが、昨今は商業出版であっても名前がネットのハンドルネームだったり、プロフィールも不明な「作者の顔が見えない」ものが数多くある。

 本に付随する情報は不安定になり、複雑化している。
 本が嫌いな人は、その雑多な情報を整理しきれず、どんどん敬遠していくのではないだろうか。

 では、今、読書を好む我々は、何を手掛かりに、好みの小説に出会うのだろう。

 必要な情報だけが欲しくて他の情報は雑音でしかない「本を読まない」人たちがいるのはわかる。でも、小説が好き、という人の中にもその「ノイズキャンセリング」をしている人が増えているように思う。
 好みは細分化され、「チーズモデル」のように様々なフィルターを通してノイズを除去し、より自分の好みに近いものを探している印象だ。

 「ノイズ」と感じることもそれぞれで、いくつかの種類があると思う。

 社会派で、風刺的だったり、世に訴える思想のはっきり出ているタイプの作家や作品は、どうしても作者と主人公の距離が近い。
 作者の人となりが色濃く出ているもの、より実体験に近いもの、あるいは「小説と言うのはそもそも作者が体験したことからしか生まれない」「作者は個人のフィルタを通して社会に提言・還元するべき」と考える人は、小説全般を読んだときに「作家の考えかたや生い立ち」は必須要素に感じると思う。

 いっぽう、ファンタジーやSF、架空設定のミステリ、時代小説など、神視点の文体や、三人称の群像劇などは、主人公と作者の距離が遠い。私小説的な作風で作家の体験などがふんだんにはいっていても、作家=主人公、と感じることが少なく、キャラクターとして考えることができるものに安心感を抱く人には、上記の「作者が作品に色濃く出ている」ことが逆に「ノイズ」と感じられてしまいそうだ。

 初めて知った作者や、あまり知られていない作家の作品を読むときは、作者のことはプロフィールや文章の中から推測することしかできない。そのため作者と主人公が近く感じられても実際には作者の性別すらわからないこともある。今度は作者の情報が過多ではなく、逆に不足しているわけで、それが心地よい人もいれば、従来の小説に馴染んできた人にはその情報不足が「ノイズ」となるかもしれない。

 誰かにとっての「ノイズ」が誰かにとっては好もしく、その反対もある。
 人それぞれの「好み」というべきものではあるが、「好み」と言うのが実はノイズを排除したところにある、という考え方は新鮮で、納得感がある。

 これは私の個人的な感覚で、なんの根拠もないが、このところ、フィクションとノンフィクションの境目をどうつけたらいいかわからない人が増えている気がする。額面通りに受け取る、というのだろうか。私生活を切り売りしてさらけ出す人が増えたせいなのだろうか。noteをしているとそこまで気にならないが、リアルの世界では驚くことが稀ではない。本が好きな人にはちょっと考えられないような読み方をする人が、たまにいる。

 作家は実体験や見聞したことだけでなく、自分の中の抽斗に入っているもの、たとえば読書体験や視聴体験、人物や出来事を総動員して、主人公がさも体験したようにリアルに表現することがあるし、そういう「小細工」をするのが作家であると言えると思う。だから「実話かと思った」という表現は作家冥利に尽きるものだし、登場人物が作中で、作者本人がびっくりするような、思いもよらないことを口走ったりするようなこともある。
 生活の中のちょっとしたヒントが、過去に体験したことと結びつき、それが何なのかを調べ始めて初めて自分の知識、語彙として会得するような事柄もある。それが、潜在意識にあったことが急に出てくる、といったことなのかどうか定かではない。

 そんなふうに作品と言うのは、必ずしも作者本人の体験や知識だけで出来ているとは言えないのだが、そういったところに想像が及ばない人が増えたような気がするのだ。「こんなことを体験できるはずがない、嘘つきだ」「こんなふうに書けるのは、恵まれた/不幸な境遇に生まれたからだ」「こういうことを書くということは作者本人がそういうひとだから」という、行ってみれば「素直な」認識に、作家と作品が翻弄されている印象がある。

 デジタル優勢の世の中になって、情報の受け取り方、小説の読まれ方が変わってきているのは確かだと思う。これまで一般に人が好ましいと感じるような情報ですら「ノイズ」と感じ、必要不可欠な読解ができない、といった傾向。

 より素直に、より易しく、よりわかりやすく、咀嚼しやすいもの。余計な思想や哲学や蘊蓄がなく、行間を読む必要がなく、登場人物のキャラクターが濃いもの。なにより、読んでいてストレスがないもの。

 そうやって、ノイズキャンセリングされた、美しく研ぎ澄まされた音楽(言葉)が選ばれ、耳(心)を満たしていくのだろう。

 ところが、そんな中で、書き手そのものは増えているのだ。
 私自身を含め。
 すべてのアカウントが機能しているわけではないし、複数アカウントもあるだろうが、noteの会員登録者数は700万人を超え800万人に届く勢いだという。文学フリマの盛況も、年々増加しているブースの数と来場者数で明らかだ。

 自分を表現する手段として「書く」人が増え、それをしっかりと「読む」人は減るという矛盾。

 わかって欲しい人がわかってもらおうとして書いているのに、雑音として除去された結果、結局はわかってもらえない、という事態を生んでいるのだとしたら。
 コミュニケーションツールである言葉が、ディスコミュニケーションを生んでいるのだとしたら。

 落としどころがみつからない、かも。

 そんなことを、ひそかに懸念している今日この頃なのである。