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金魚鉢宮 #シロクマ文芸部

 金魚鉢宮きんぎょはちぐう、次はきんぎょはちぐう、というアナウンスが車内に響いた。
「キンギョハチグウなんてバス停、あったっけ」
 隣に座っているシュウくんに聞くと、うん、昔っからあるよ、と眠たそうな返事が聞こえた。つるんとした顎先に、ぽつんとひとつ、ニキビがある。気になるのか、時々触るので、触っちゃダメ、と彼の手に自分の手を重ねた。
 バスの車内の二人掛けの席に座れたのはラッキーだった。密着している腕や太ももが熱を帯びている。
 金魚鉢宮では、誰も降りず、誰も乗らず、バスは停車せずに通過した。
 

 テストが終わった日、かれぴっぴの家に行ってくるぅ、と友達に宣言し、二人でバスに乗った。親にはもちろん、友達の家にお泊り会、と嘘をついた。アリバイ工作合点承知の友達は、笑って冷やかしながら手を振って送り出してくれた。
 同級生のシュウくんと付き合い始めて1年。高校生の交際は意外と続かない。アプリで知り合って3か月や半年で別れる子たちが多い中、学年が上がってクラスが変わっても、まだちゃんと付き合っているのが結奈ゆいなの自慢だった。
 シュウくんの家に行くのは初めてだった。動画を見せてもらったことがあるけれど、立派なフロントのあるマンションで、マンションに住んだことのない結奈には別世界だ。
 これまでデートと言えばたいていは街中をぶらぶらするか、結奈の家に彼が来ることが多く、シュウくんの家に行くことはなかった。シュウくんが、週末にかけて親がいないから、うちに来ないかと言ったときは、心臓の音が聞かれないかと心配になるくらいドキドキした。落ち着いて何時間もふたりっきりでいられるなんて、初めてだったからだ。結奈の家は親が共稼ぎだけれど、パートの母がいつ帰ってくるかわからないので、いつもなんだか焦っていて、時計を気にしている。この週末ばかりはそれをしなくていいのだ、と思うとテストにも全く集中できなかった。
 でもそんなのいい。今を生きてる実感だけがあればいい。
 結奈にとっては、シュウくんとの日々や、友達と楽しく過ごす毎日があれば、その先のことなんてどうでもよかった。
 バスを降りて、手をつないだ。制服で手をつなぐのは高校生でいる間しかできないから、絶対する。シュウくんは、いつも別にどうでもいい、という感じで、結奈のすることに身を任せている。
 そういえばさ、と、シュウくんは、部屋でTシャツを着ながら言った。互いに細い身体を預け合ったあと、何か食べようよと彼が言い、結奈もゆっくり身を起こしたときだった。
「金魚鉢宮って、都市伝説があるんだ」
 へえ、と結奈は髪をかき上げ、ブラを身に着けた。
 せっかくゆっくりできると思って彼の部屋に来たけれど、そしてふたりきりで嬉しかったけど、そう、なんとなく―――なんとなく変な違和感があった。違和感。なにかもやもやする。なにか、気持ち悪い。
 それは瞬間的な感情で、持続しなかった。
 一瞬。ほんのわずかな、それは―――気配。
 部屋は片付けたんだと言っていて、綺麗だった。掃除もしてあったし、シーツも新しそうだ。学校のプリントが机の上に乱雑に重ねられてはいたけれど、変なぬいぐるみやフィギアやアクスタがあるわけでもない。普通の男の子の部屋、という感じがした。ブルー系のカーテン。天井にへばりついた半月のようなシーリングライト。
「昔あの辺に、金魚鉢、っていうラブホを中心にしたラブホ街があったんだって。なんか歴史古いらしくて、遊郭っていうの?江戸時代とかから、あのあたり、そういうとこだったんだって」
「へえ。金魚鉢なんて綺麗な名前なのにね」
 部屋をあちこち眺めながら衣服を身に着け終わって、バッグから鏡を出した。乱れた髪をとかす。トイレに行って戻ってくると、シュウくんは靴下を探していた。
 ふうん、シュウくんって、部屋の中で靴下履く派なんだ、と初めて知った事実を心のアプリにメモする。
「百年前くらいに大火事があって、それから、そこに何を建てようと長続きしなかったんだって。それどころか、火事とか雷とか大雨で被害が出たり、軒並み店がつぶれてしまうらしくて。そのうち誰も寄り付かなくなって。そしたら誰かが、古い文献とか調べて、金魚鉢って名前をつけないと、焼けたり潰れたりするから、必ず金魚鉢って名前を付ける風習があったらしいってわかったんだって。それから神社を建てて、地域一帯に金魚鉢宮って地名をつけた」
「ふうん。それで、どうなったの。何も起こらなくなったの」
「らしいね。今、高級マンションとかタワマンとか建ちまくってる」
 そう言ってシュウくんは着替えを終了すると、話はそれで終わり、とばかりに部屋を出て行って、ピザのカタログを持ってきた。
「それで、どうする?今日泊まる?」
 当たり前のようにシュウくんが訊いた。結奈も当然お泊りセットを持ってきていたけれど、どういうわけか気が変わって、ううん今日は帰る、と言っていた。まさに口を突いてでた、という感じの唐突感だった。
「え、なんで?うちの親リモート仕事だから、土日いないの珍しいんだけど」
 絶対泊まっていくと思っていたらしく、少し苛立ったような顔を、シュウくんは、した。
「あ、うん。そうなんだけど」
 急に生理になっちゃったのと嘘を吐いた。
「うそ。まじ?さっきなんか、おれ、やばいことした?」
「ううんちがう。そういうんじゃないの。そういうことってあるの」
 結奈は苦しい言い訳をした。
 そこからは、お互い当てが外れた感じでなんとなく気まずくなり、ピザの注文もやめて、帰ることにした。
「なんかごめんね」
 怒っているのかなとシュウくんをちらちら見るけれど、シュウくんはいつもと同じ、淡々とした感じだった。
 思えばシュウくんはいつもそうだった。結奈が好き好き、と懐いても、大事な記念日を忘れた報復に何日かLINEを未読スルーしても、態度が変わるということがない。好き?といえば好きと言うし、私たちつきあってる?と言えば、つきあってると言う。キスだってセックスだって、結奈がしようしようと言えばするけど、彼から誘うことはない。そもそも、つきあって、と言ったのは結奈のほうからだ。いいよ、と彼は言う。いつもそういう。いいよ。結奈がいいほうでいいよ。結奈がそう思うならいいよ。
 こだまみたい。
 だから、そんなふうにいつも受け身なシュウくんが、うちにくる?なんて言ったのは事件、だったのだ。テストも捨てるほどこの日にかけたのに、自分の心がわからない。どうして急に、帰りたくなったんだろう。
 ふたりで無言で、帰りのバスに乗った。
 気まずいから送ってくれなくていい、と言ったのだが、シュウくんは黙って一緒にバスに乗った。
 乗り込むときも、変だった。結奈はいつも窓側に座るのに、無意識に通路側を選んで、窓側にシュウくんを座らせた。
 さっきから、自分、何かがおかしい。
 シュウくんは何も言わない。結奈のするがままにさせ、窓際に座ると、あっという間に寝てしまった。
 何駅か過ぎたとき、また、あのアナウンスが聞こえた。キンギョハチグウ。しかし今度は停留所に人がいて、派手なお姉さんが乗ってきた。
 その人は、金魚鉢宮に相応しく、本当に金魚みたいな服を着ていた。黒い丈短たけみじかのレザージャケットの下は、デコルテが大きく出て、胸元がハート型に開いた赤いワンピース。スカートの裾がひらひらしている。乗り込んできて近づいてきたら、真っ白な乳房が「Y」の字に見えていて、思わずじっと見つめてしまった。顔立ちもいいが、メイクも斬新で、真っ白なファンデに目元が花魁みたいに赤い。コスプレみたいで悪目立ちしそうなのに、それは彼女にとてもよく似合っていた。
 比較的空いているのに、彼女は結奈とシュウくんの二人掛けの席の隣に立った。席、空いているのに、と思った瞬間、彼女が言った。
「よう帰ってきんしたね」
 え、と思わず彼女を見上げる。言葉遣いが変だった。なんのことなのか、自分に話しかけられたのかわからず、黙っていた。
 女はじっと、結奈をみつめた。どう考えてもコスプレイヤーだし、言葉遣いまで真似するなんて変な人かも、と思い、すぐに彼女から視線を外した。窓の外に視線を飛ばして、彼女を無視することに決める。
「この子、猫殺し」
 お姉さんは、手すりの棒につかまって、外国人のように片言でそう言ってシュウくんをみていた。思わず視線を戻し、は?とつい、声が出てしまった。
 何を言い出すんだろう。知り合いなんだろうか、と思って、シュウくんを見ると、彼はスマホを手にしたまま、ちょっと口を開けて寝ていた。熟睡しているようだ。このままだとスマホを落としてしまう、と思って、彼の手からスマホを抜き取ると、スマホは明るく光り、SNSの通知が次々と点滅するように着信していた。
 ———なにそれ お前の彼女ダサい
 ―――帰るとかマジか
 ———今度は猫じゃなくて人間って言ってませんでしたか
 ———チキン野郎www
「え?え?」
 結奈は驚いて、ひたすら続く通知を茫然と見る。なにこれ。
「この子、部屋に猫を監禁しんす。それを毎日撮影して、”アップ”しんす。猫が死ぬまで」
「はあ?うそ、何言って―――」
 結奈は他の人も聞いているのになんてことを言うのかと思い、少し伸びをして周囲を見渡す。誰もかれもが熟睡しているようだった。今さらながら、ゾッとした。
「監禁されるところでありんした、ぬしさん」
 ぬしさん、と言われて誰のことかわからず、自分を指さすと、彼女はこくんと頷いた。まさか、と言いかけた声が凍る。信じられない。信じちゃいけない。シュウくんとは1年もつきあってきたし、絶対絶対、そんなことする人じゃない。
「この子、人の言いなり」
 お姉さんはどこか焦点が合わないような眼をしたまま、シュウくんの方を見て言った。
「誰かに強う言われると、なんでもしんす」
 結奈はあまりのことに、ぼんやりとお姉さんを見た。
「なんでそんなこと・・・」
 お姉さんはふふっと笑った。妖艶という字がそのまま笑顔を作ったみたいな笑い方だった。
「女の宮で、そんな不埒を働くなんて、許されねぇこと。でもぬしさんは、勘がようござりんすね。よう気づきんしたね」
 自分でも、何かに気づいてたんだろうか。あの違和感。あれはそういうことだったんだろうか。
「どれほどつきあおうとも、人のことはわかりんせん」
 お姉さんは今度こそ焦点の会った目で、結奈を見て言った。
「あちきのような女たちと同じ思いはさせられねぇ。金魚鉢のなかで飼われて、生涯そこから出られねぇ。ぬしさん、この子とはこれを最後にしなんし。自分のために、自由に生きなんし。おさらばえ」
 勢いにのまれたように、頷いていた。
 かくん、と身体が前に傾いだ。
 ちょうどキンギョハチグウ、というアナウンスが聞こえたが、停留所には誰もいない。バスもそのまま走り過ぎた。
 なんだ、夢だったのか、と思い、隣のシュウくんを見た。彼は、スマホを取り落としそうになりながら寝ている。実際、スマホがずり落ちそうになり、慌てて押さえた。
 頭のどこかで、警告音がなる。
 見ては、いけない。
 そう思ったけれど、やはり見てしまった。
 夢と同じ、通知が来ていた。
 結奈は、シュウくんのお尻側の座席にスマホを滑り込ませると、彼を起こさないようにそっと席を立ち、何人かの乗客と一緒に、次のバス停で降りてしまった。
 去っていくバスを見送る時、窓からちらりと、あのお姉さんの黒いジャケットと胸元のハート型が見えた気がした。


 住宅街の真ん中で、次のバスを待った。自分の住む街までは、あと数駅ある。半日前の浮かれていた自分に、苦々しい思いがこみ上げてきた。
 あのお姉さんが現実でも夢でも、シュウくんのことが本当でも嘘でも、もう別れは決めていた。本当は、もっと前からこだまに疲れていたような気がする。スマホの通知が、決定打だっただけだ。
 そして、きっとあのお姉さんがいたに違いない、金魚鉢という名の遊郭のことを想像してみた。
 初めて聞いたときは、可愛らしくて綺麗な名前、と思ったけれど、バスを降りた今はわかる。
 それは残酷な金魚鉢だった。
 スマホで検索すると、お姉さんが最後に言った言葉は「さようなら」という意味だったと分かった。
 ―――自分のために、自由に生きなんし。おさらばえ。
 自分のために、自由に生きることができなかった、お姉さんの生涯。
 涙が込み上げた。それは彼氏と別れて悲しい涙では、決してなかった。
 ―――助けてくれてありがとう。おさらばえ。
 目を上げると、住宅街の上に夕焼けの空が広がっていた。薄紅の光を受けた雲が、まるで小さなたくさんの金魚たちのように見えた。

 


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