紙一重
厄介な感情を持て余したまま右手を吊革にぶら下げていた。とっぷりと更けた夜の中を行く電車の窓に映る顔は酷く疲れている。会社を出る時に化粧室で聞いてしまった一言が、心をかき乱していた。
紙一重だよね、という同僚の言葉が、まさか自分のことを指しているとは最初は思いもしなかった。当の本人が個室にいるとは思わずに鏡の前で交わされる会話は密やかだった。こんな時だけ聴こえてしまう自分の耳が呪わしい。
佳織さんのこと?と、いう声に続き、そうそう、ともう一人がさらに声を潜めた。
ほとんど朱莉さんのストーカーだよね。一歩手前。朱莉さんが身に着けてるもの、全部真似してるでしょ。そう!気づいてた?気づかないわけないじゃん。確かに朱莉さんは仕事できるし素敵だけど、あんなにあからさまに真似されたら嫌じゃないのかな、私だったら嫌だ。キモい。同期入社だって、あのふたり。えー、朱莉さん可哀そう。
電車の揺れに身をこわばらせて耐えながら、脳内で何度もさっきの会話を再現した。
キモい。朱莉さん可哀そう。一歩手前。紙一重だよね。
マナーモードにしていたスマートフォンに着信があった気がしてバッグの中を探る。夫からのLINE通知だった。今日遅くなる、という短いメッセージ。
昨日も一昨日も、同じメッセージが届いて、結局帰ってこなかった。
どこにいるかはわかっている。佳織はスマートフォンをバッグに戻したついでに、持ち歩いている紙を触った。夫にもらってから、肌身離さず持ち歩いている、紙。
帰宅して、バッグの中身を全部出す。丁寧に柔らかい布で拭きながら、引き出しの所定の位置にひとつひとつ納めて行った。収納術の達人がそうすることで運がよくなると言ったからだ。財布は、朱莉のと同じ。定期入れも、名刺入れも、全部朱莉と同じもの。スマートフォンの機種も変えた。少しずつ観察して揃えていった。
そして最後に、バッグのポケットに折り畳んでしまってあった紙を取り出してテーブルの上に広げる。塗りなおしたときに無造作に同じポケットに入れてしまった口紅が、転がり落ちた。
夫の名前だけが書いてある、離婚届の上に。
もちろんこの口紅も、朱莉と同じもの。
「嫌がらせに決まってんじゃん」
そのルージュを塗った自分の唇から漏れた言葉に刺激されて、涙が零れ落ちた。
今日も夫は朱莉のところに「帰る」のだろう。
毎日会社で顔を合わせても何食わぬ顔をしているし、同僚にはあんなふうに被害者を装っているが、二人きりになると朱莉の態度は豹変した。入社以来ずっとそうだった。仕草や口癖、仕事の仕方まで、何でもかんでも佳織の真似をしていたのは、最初は朱莉のほうだった。
ついに夫まで――。
夫とのつながりは、もう紙切れ一枚になった。
朱莉がいいなら、朱莉になる。朱莉になって、私は夫を取り戻す。
佳織は、何枚目かもわからない離婚届をビリビリに引き裂いた。
(1171文字)
了
秋ピリカグランプリのお題「紙」で、もうひとつ、作品を書いていました。『紙さま』と迷って、応募作はあちらに決めました。
締め切りを過ぎたので、創作記事として出してみます。