朝霧の怪 #シロクマ文芸部
霧の朝駆けは馬も嫌がる。
夜半に冷え込んだ街道は朝方には濃霧に包まれていた。視界を遮り立ちこめる、本来、天にあるはずの雲を縫って馬で進む。
整備された道はすぐに荒れた道になり、昨夜の氷雨でぬかるんだ泥土に馬の足を取られつつゆくしかなかった。
西へ向かっていた。
五感と薄っすらと見える道標を頼りに、切通しにさしかかった。雑木林に潜む盗賊もこれほど見通しが悪ければいきなり襲いかかることもないだろう。
若い武士は林を抜け、坂を登る。慎重に馬の手綱を捌いた。
盗賊も遠慮するほどの霧の中を行かねばならぬには訳があった。
怪異がある、というのである。
古来この道は京に通じ、かの九郎判官は源平合戦後、鎌倉を目前に兄頼朝に足止めされこの道の先に留め置かれた。霧などなくとも切通は狭く見通しが悪い。追い剥ぎの類も多い。何があってもおかしくは無いのだが、今回の噂はどうにも奇妙であった。
女に惑わされる、大男が出る、仏が現れるといった怪異があり、それが決まって霧の深い朝だという。
こたび侍所別当より真偽を確かめてまいれという命を受け、若い武士は戦のいでたちで現地へ赴いた。北条の世、三浦の血に連なる若武者である。要職にはつけず件の妖異にうってつけとみなされるのが、悔しいやら、先祖に顔向けできぬやら。とはいえ命に叛くことなど許されぬ。
女子がな、禿を連れて立っておるのじゃ。
怪異から命からがら逃げた家人がそう言っていたのを、馬上で思い出す。
それはそれは婀娜なるおなごじゃ。垂衣からな、こう、鼻先と紅をさした口元がちらりちらりとな。年若くもないが年増でもない。身分高きおなごとみるに、手招いて誘っておるのじゃ。我はもうたまらんようになって馬を降りて徒で近づいた。
ごくり、と鳴らす喉の音は語る男と聞く男、どちらのものだったか。
捕まえるとなかなかに骨太いおなごなのじゃ。あれあれと言うその声も艶なるもの、我は掛を解くのももどかしく、襟を広らげ、胸元にこう、ぐいと手を差し込んだつもりだったのじゃが。
はて、それでいかがした、と日ごろすました顔の問注所の別当までもが身を乗り出した。
その時、にわかに霧が晴れたのでござる。我が抱いておったのは女性の腰のような木でござった、禿と見えたのは隣に立つ小さな道祖神。逃げ帰ったその夜から三日三晩うなされましたぞ。
別当を意識してか少し言葉遣いが改まった男は、頭を下げると帰っていった。
今、若武者がいるのは、家人の言う刻と同じ刻、同じ場所。
霧は深いが、もう日が高い。このような刻限に女が誘うなどと、若い武者は男の話を半ば疑い、心底信じてはいなかった。だがこうして来てみれば、確かにただならぬ妖気。何があってもおかしくないほどの怪しげな霧である。
もし、と女の声がした、ような気がした。
だがその時、すうと霧が動いた。あの男が言っていた女の腰のような木のそばに、石造の道祖神がぽつんと立っている。
若武者は馬を降り、辺りを検分した。すると、枯葉を焚火した後のようなものが見つかり、足でかき分けると、焼け残ったハシリドコロのような草が見えた。
これだな、と、武士は思い、得心した。なるほど昨日の夕刻あたり、雨になる前に盗賊か炭焼きが野焼きをした際、ほんの少しハシリドコロを炊いてしまったのではないか。炭焼きは山のことを心得ているであろうから、盗賊一味の仕業か。おそらくこの残り香が人を幻惑していたに違いない。
しかして、わざとであろうか。霧を利用し、旅人をかどわかして金品をせしめる魂胆であったか。
怪異にあった男は、三日三晩の虚で済んでむしろ良かったというべきだろう。下手をすれば死人が出た。
霧が向こう正面にそろそろと退き、周囲の様子がわかるようになって、武士はいったん馬に戻った。とそのとき、背後から急に朝の光が差し込んだ。
馬の向きを変えようして、驚きのあまり身動きできなくなる。
向こうの霧の中に、蠢く黒い、大きな影が、光の輪に包まれているのが見えた。
たれぞ、と鋭く叫んだ。向こうの霧の中からは、こちらが良く見えぬに違いない。姿の見えぬ相手に名乗るのが憚られ、相手の出方を待つ。相手から返事はなく、身じろぎもしない。
おい、返事をせぬか、無礼者、などと声をかけるが、いっこう、相手からの反応はない。ただただ、光の中の大きな影が揺らめき、なんとはなしに近づいて来ようとしているようだった。
「こちらから声をかけたるに、なんたる無礼」
反応が無いので次第に罵詈雑言が高じ、ついには母開とまで放言して、ふと、相手が言葉も通じねば血も涙もない荒くれの賊、あるいは妖魔なのではと思い、急に恐ろしくなった。妖魔など信じぬし、普段なら何を恐れることもないが、賊が一団であれば多勢に無勢である。震える手で背に負った弓をつがえたそのとき、霧のなかから大男が有無を言わさず手を伸ばしてきた気がして、思わずたじろぎ馬の腹を蹴りつけた。
驚いた馬が駆け出す。とみると、そこは崖。
落ちる――と目を閉じたとたん、若武者は我に返った。
霧が晴れていく。
土の湿った匂いはそのままに、視界が開けた。
若武者は泥に伏していた。泥の冷たさが意識を引き戻す。
あれは、なんだったのか。
ハシリドコロの見せた悪い夢か。
馬を失った武士は、泥だらけの鎧で起き上がり、茫然と賊のいたほうを眺める。ただでさえ湿気で濡れそぼった直垂が泥にまみれ、鈍色の滴を垂らした。
大男は影も形もなく、消えていた。
何事もなかったかのように百舌鳥がなく。
はるか向こう、地面に沿うように流れていく霧の上に、白い虹が見えていた。
了
ハシリドコロは、関東には自生していないと思います。