『あたりまえ』がこころを殺す
「あぁやばい・・・ちょっと鬱っぽいな・・・」
そう気づいてさらに心が沈みそうになる一方、
「何がいけない?原因は何だ?」
と冷静に分析して解決策を見出そうとする自分もいる。
そんな中でひとつ気づいたことがある。
『あたりまえ』が僕のこころを殺そうとしている。
先日、ため息に殺される日というnoteを書いたが、そのため息の原因のひとつがこれかもしれない、とも思う。
責任感が強い性分のためかつい、○○しなきゃいけない、○○してあたりまえ、という考え方をしてしまいがちだ。
育休取ってるんだから、子どもの世話してあたりまえ。
いまどき男性だって、家事をこなしてあたりまえ。
子どもの世話は最優先するのがあたりまえ。
あたりまえ、あたりまえ・・・
そうやってたくさんの『あたりまえ』というナイフを自分で自分に突き立てて、
「これができなかったら父親失格だぞ?」
「育休取ってるのにやらなきゃダメだろ?」
と、まるで自分のこころを脅しているかのよう。
でも、実際にはできないことも多くて。
自分で突き立てたナイフは自分のこころに刺さっている。
育休取ってるんだから子どもの世話してあたりまえなのに、泣いてる子どものご機嫌をうまく取れずに立ち尽くしてしまったり。
家事だってやってあたりまえなのに、子どもと遊び疲れて洗い物を放置してしまい、妻がやっている姿を見て自己嫌悪に陥ったり。
子どもの世話を優先するのがあたりまえなのに、自分がやりたいことを満足にできなくてイライラしたり。
あれもやってあたりまえ、これもやってあたりまえ。
そう思ってしまうほど、できなかったときに辛くなってしまう。苦しくなってしまう。
でも、本当は『あたりまえ』なんてものは存在しないはずだ。
あたりまえとは、世間の常識、あるいは正解とも言い換えられるものかもしれないもの。
だけど子育てに関しては特に「世間ではこうだから」とか「これが正解で」みたいなことがない。
だから子育ての場面で『あたりまえ』を自分自身に強要しすぎてしまうともう、にっちもさっちもいかなくなってしまう。
・・・と、自分を苦しめる原因の1つがこれだろうと仮定するに至った。
じゃぁ、どうするか?
あたりまえ→なのにできない→自分はダメだ、みたいな思考回路がはたらき自分自身を苦しめる。
自分はできていない、と感じるとき、どうも大きなくくりで考えてしまっている気がする。家事ができてないとか、子どもの世話ができてないとか。
でも実際には小さなことは達成できている。洗い物と洗濯たたむのは放置したかもしれないけど、ゴミ出しはちゃんとできた、とか。
それこそ子どもみたいな話かもしれないけど、その小さな”できた”という事実を、自分の成果として認めてあげることにしたい。
今日はゴミ出し忘れずにやった。それだけでも立派だ!
完璧なんてありえない。
小さなことだけでも十分。
今日から9月。僕の育休生活は残りちょうど4ヵ月。
きっと長いようで短いと思う。精一杯いまを楽しく生きるために、改めて小さなことからスタートしていきたい。
このnoteは、日々の暮らしのことや、小さな気づき・学びを綴っています。僕の日常のひとコマがあなたの行動のきっかけになればうれしく思います。
この記事の表紙画像は 41330によるPixabayからの画像 をお借りしました。ありがとうございました。
お気持ちだけでも嬉しいです。ありがとうございます!