プチ書評 勝又基 編『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(文学通信、2019年)
本書は2019年1月に明星大学で開催されたシンポジウム「古典は本当に必要なのか」の成果をまとめたものです。
このシンポが開催された前提には、人文学、特に古典文学研究・教育の置かれた厳しい状況があります。この状況を打破するには、古典肯定派だけで古典の意義を論じるのではなく、古典否定派の論理にも耳を傾け、正面から反論することが必要だとして、このシンポが開かれたようです。
その内容をまとめ、当日のアンケート結果やYouTubeのコメントを収集し、さらにシンポのコーディネーターであった勝又氏による総括が付されたのが本書です。
1 本書の内容
本書の大まかな目次は次のとおりです。
Part.1 シンポジウム「古典は本当に必要なのか」全記録
第一部 パネリスト発表
【否定派】
高校生に古典教育は必要か?(不要 選択科目にすべき) 猿倉信彦
古文・漢文より国語リテラシー 前田賢一
【肯定派】
古典に、参加せよ 渡部泰明
BUNGAKU教育を否定できるならやってみせてよ 福田安典
第二部 ディスカッションはじめに
1.パネリスト同士のディスカッション
2.フロアの否定派1人目
3.フロアの否定派2人目
4.フロアの否定派3人目
5.ポリティカル・コレクトネス(political correctness)の問題
6.多文化化していく社会で、教育の対象は誰か
7.古典に触れる機会を残しておきたい
8.古文・古典の意義とメリット
9.リベラル・アーツとしての古典を起点に、ユーザー目線の制度設計を考える
10.その他のフロアの意見
11.まとめ
第三部 アンケート集計
①全体の議論を聞いて、最終的にどうお考えになりましたか?
②ご意見・ご感想を自由にお書きください
付・YouTubeのコメント欄に寄せられた意見
あとがき
Part.2 古典に何が突きつけられたのか 勝又基
1.開催まで—身内の怪気炎にすぎないシンポを越えるために
2.パネリスト発表
3.古典の優先度はどの位置がふさわしいか
4.古文を読んでも幸せになれないのか
5.古文は日本語力向上に役立たないのか
6.古典文学は倫理的に問題があるのか
7.限られた古文の時間をどう生かすべきか
おわりに
まず、Part.1では、否定派・肯定派それぞれ2人のパネリストが主張を述べ(第一部)、次にパネリストと会場の否定派・肯定派がディスカッションをする(第二部)という構成になっています。この書評では、第一部のみを簡単にまとめます。
この議論の中で、否定派は高校で古典を必修にすべきかを議題として設定しました。
猿倉氏は、①高校生はもっと他に役に立つ学ぶべきことがある。②古典教育は年功序列や男女差別の概念の固定化を刷り込むツールになってる。③国際競争に必要な世界標準の知識でない。といった3つの論点をあげ、高校で古典を必修にすべきではなく、哲学は現代文に、情緒的古典は芸術科目選択にすべきだとします。猿倉氏の議論の根本には、教育の出資者は国と家族であるから、国へはGDPや競争力の向上によって還元し、家族(個人)へは収入や自己実現によって還元されるべきとする考えがあるようです。
また、同じく否定派の前田氏は、古典を「過去に表現された立派な内容」とし、古文を「古典が書かれた言語」と定義します。その上で、高校以降の古文・漢文は選択制にして、古典は現代語で学べば良いとします。そして、国語はリテラシーと芸術に分けられるとし、社会に出た時に必要になる国語リテラシーをこそ教育すべきだとしています。
一方、肯定派からは、まず和歌史を専門とする渡部氏が、「古典は主体的に幸せに生きるための智恵を授ける」ところに古典を学ぶ意義を見出します。その幸せとは、「良い仕事を責任ある立場で成す」ことだとします。そして良い仕事をするには、情理を尽くすことと優れた着想が必要であり、それを古典から学べるというのです。
もう一人の肯定派である福田氏は、まず高校古典は既に選択制になってきていると現状を整理します。その上で、理系研究者にも関係がありそうな江戸時代の農書や医学書を読むには高校までの古文や漢文の知識が必要であるとして、現在の文理分断を批判しました。
このあと、シンポで行われたディスカッション、アンケート集計があり、Part.1が閉じられます。そして、Part.2では、勝又氏がこれらの議論を総括して、肯定派の立場から古典の必要性を論じています。
2 2つの疑問・不満
本書のPart.1を読んでいて、以下の2つの疑問・不満がありました。
①高校で古典を必修にするべきでないという否定派の主張に対して、肯定派が真っ向から反論しなかったこと。
②YouTubeコメントの最後にもありましたが、高校古典の必修の是非を議論しているのに、学習指導要領関係者や現役高校教員が入っていないこと。
このうち、②はPart.2の勝又氏の総括を読んで、その原因を理解できました。
そもそもこのシンポは、最初から高校古典必修の是非を議論するために企画・人選されたのではなく、古典の意義について否定派・肯定派双方で議論するために企画・人選したところ、否定派から高校古典必修の是非に議論を絞った議題が提出された、ということのようです。
シンポのこうした成り立ちからすれば、スケジュール&人員調整的にも後から高校教育関係者を入れ込むのは難しかったのだと思います。
上述の推測が正しければ、事情はわかる。しょうがない。
このシンポと本書だけに完全な議論と結果を期待するのではなくて、このシンポと本書を契機として、国語だけに限らない高校教育のあり方全体に対する議論や人文学・古典の必要性についての議論を、官僚や大学教員や高校教員やそうでない人たちも含めた様々な人の間で深めていけば良いのだと思います。
では、①は?
古典肯定派が否定派の主張に真っ向から反論しなかったために、議論自体は否定派の圧勝に終わりました。古典がどう役に立つのか、なぜ古典でなければならないのか、古典の優先順位はどうなのかについて、最後まで納得のいく反論はありませんでした。
これは議論が尽くされた結果ではないので、シンポの参加者には不満が残ったのではないでしょうか。
ただし、本書の中では、勝又氏がこの点についてPart.2で論じているため、本書を最後まで読み進めれば、この点についての不満はほぼ解消されました。
3 勝又氏の総括は必読。アンケートに重要な指摘も。
本書を読んでいただきたいので詳しくは紹介しませんが、Part.1に収録されたアンケートには、否定派の主張に対する重要な反論も多々あります。また、Part.2の勝又氏による総括は必読です。
勝又氏は高校の学習指導要領にも触れ、さらに否定派からの批判にも十分に応えて議論を展開しています。評者も勝又氏と同じく肯定派の立場ですが、勝又氏の総括以上に的確に古典の必要性を説明する言葉を持ちません。
本書を通読すれば、少なくとも評者には「古典は本当に必要だ」と思えるような内容になっています。
4 ちょっと考察
—議論は否定派の圧勝だが、そもそも噛み合っていない—
ここでは、本書を読んで評者が感じたこと、特に前述の①、つまり議論の行方について、思うところを述べてみます。
なお、本書では多様な論点がありましたが、それら一つひとつについては触れません。勝又氏の総括をお読みください。
高校古典必修の是非についての議論では、否定派が圧勝しました。肯定派が否定派の主張にほぼ反論しなかったためです。
ただし、評者には、この圧勝の原因のは、そもそも高校古典教育の目的である[教養]とは違う問題[競争力]に論点の一つが設定されたためのように思えました。
否定派は、高校古典が国際競争力や年収に還元されないから選択制にすべきだと主張します。肯定派は、その否定派の主張に応じて、高校古典がいかに仕事に役立つかを論じようとしていました。
しかし、学習指導要領を見ると、高校古典教育はそもそも教養を主な目的として設定されたものであるように思われます。
下記は、勝又氏も総括で紹介した、古典が含まれる「言語文化」の学習指導要領の「目標」として示されたものです(これ、シンポの最初に掲げてその是非を議論してほしかったです)。
(1) 生涯にわたる社会生活に必要な国語の知識や技能を身に付けるとともに,我が国 の言語文化に対する理解を深めることができるようにする。
(2) 論理的に考える力や深く共感したり豊かに想像したりする力を伸ばし,他者との 関わりの中で伝え合う力を高め,自分の思いや考えを広げたり深めたりすることが できるようにする。
(3) 言葉がもつ価値への認識を深めるとともに,生涯にわたって読書に親しみ自己を 向上させ,我が国の言語文化の担い手としての自覚をもち,言葉を通して他者や社会に関わろうとする態度を養う。
※文部科学省「高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 国語編」2018年
ここに「我が国の言語文化に対する理解を深め」とあることや「我が国の言語文化の担い手としての自覚をもち」とあることを踏まえれば、高校教育における古典は教養のために学ぶのだと認識されているように読めます。
つまり、学習指導要領では、[競争力]とはベクトルの違う[教養]に古典教育の意義を見出していて、日本社会に生きる人たちの修養を目的として古典教育をしているということでしょう。
このように考えると、肯定派が古典教育の必要性について、[競争力]に関係しそうな事柄を持ち出して議論しようとしたことに、そもそも無理があったように思います。[教養]を目的とした古典教育が、どう[競争力]獲得に役立つかという議論では、肯定派にとって分が悪いことは明白だからです。
以上の理由から、シンポでは否定派が最初に設定した[競争力]という指標に引きずられたために、肯定派が議論に苦慮した印象を受けました。
しかし評者は、肯定派の議論は、[競争力]という指標とは噛み合わなかったものの、「なぜ古典を学ぶのか」(=なぜ古典に基づいた教養が必要なのか)という根本的な問いには答えていたように思います。
シンポでの肯定派の意見を参考に、高校で古典(教養)を学ぶことの意義を考えれば、次のように言えるでしょうか。
“古典を学ぶことで文理に関わらず日本文化の享受者・担い手となりつつ、幸福に生きるための智恵を得ること”
…ちょっと無理やりまとめた感がありますが、それでも、肯定派はそもそもの古典の学習意義、教養の意義については論じていたことになるのではないでしょうか。
もちろん、評者も競争力を磨くことは重要だと考えます。
否定派の猿倉氏が言うように、人生で教養が必要になった場面がないと感じる人もいるでしょう。しかし、多様な価値観が存在することを高校で学ぶことは、多様化の時代にこそ必要なことのように思えます。
自身とは違う価値観に生きる人が存在することを、[競争力]科目と[教養]科目の履修を通して、高校時代に経験しておくことも、視野の広い人間になるためには必要なのではないでしょうか。
ただし、否定派の主張のとおり、[競争力]科目と[教養]科目の適切な配分については、議論が継続されてしかるべきでしょう。
その議論の際には、教養が人生にどう有益なものかについて、もっと具体的に示せるようになっておくことが求められるでしょう。
以上のようにみてくると、このシンポと本書は、古典や文学の社会的存在意義を見直すための大きなヒントを与えてくれたように思います。
教養としての古典教育の実効性が奈辺にあるのか、それをこれから探っていく必要があります。
【補足1】
前田氏が指摘するように、日本古典に限らず西洋古典を学ぶことでも“幸福に生きるための智恵を得る”ことはできるでしょう。
しかし、いま私たちが生きている日本社会は、日本古典を生んだ昔の日本社会の延長線上にあるものです。言葉や生活様式等の面からも日本古典を学ぶ方が理解が早く、いま私たちが生きている社会がどのような過去を辿ってきたのかを理解する手助けにもなると思います。
評者は、現今の社会においても、日本古典を学び続ける必要があるのだと思います。
【補足2】
評者は、日本という国家にとって、日本の高校で学んだ人たちに広く日本の文化を伝え、ある程度共通の教養としておくことは、日本社会で培われてきた文化を絶やさないためにも生活レベルで継承していく上で必要だと思います。
これは国家の統治理念としては、極めてオーソドックスな考え方です。国家にとってある程度“望ましい国民性”を養うために、国家が民を教化することは、古代から行われていました。
(この点については、以前に「律令国家における「観風俗」の意義」(『万葉古代学研究年報』第17号、2019年)という論文で触れたことがあります)
こんなことを書くと、「教育が国家に利用されている!」という拒絶反応も生まれるでしょうが、そもそも公教育はそうした一面から逃れられません。だからこそ、その公教育の内容を国家の恣意に任せるのではなく、社会全体として望ましい教育内容に導いていくのが、学界や研究者の役割なのだと思います。