断食三日目 最終日
こんばんわ
断食も3日目が終わろうとしております。
先ほどは、断食中毎日やっていた晩の2回の坐禅が終わったところで、一息ついてこれを書いております。
今回は、3日という長くない期間の断食でしたが、豆乳を飲みながらの断食だったこともあり飢餓感は極めて薄く、身体的にもさほどきつくない断食でした。
今回の断食は苦行が目的ではありませんでした。
身体と精神に余計なものをいれず、物質的にも精神的にもデトックスをし、無職になったこれからの自分についてしっかり向き合おうと思ったのが主な目的です。
私は部屋にいるとあまり集中ができない性質で、しっかり物事を考えたりできるのは移動中や旅中であることが多いです。
なので今回も、何かものを考えるためには部屋に閉じこもっているだけではだめで、自分と向き合うには何かが必要なのでした。それが坐禅だったのでした。
自分の自由に制限を加えることで、無理やり自分と向き合うのです。
とはいえ、人間自分には甘いもので、「果たして俺はちゃんと自分と向き合えたのか?」と言えわれれば、どうなんだろうか。
昨日の記事では、断食や坐禅に果たして意味があるのか?という疑問が湧いたこと、また、このような宗教的な行をしていても(岡本太郎がいうところの)「生命を爆発」させることはできないんじゃないか?ということを書きました。
確かにできないだろう。
ただ、人間の生命に必須の「食」を断つ行とか、結跏趺坐の状態で数十分全く動かない行を一定期間課し自分に制限をかけることで、そして、制限すればするほど、自分の生命力がそこから這い出そうと、エネルギーがふつふつと起こってくるのを感じたのです。
昨日、「断食なんかやって何の意味がある?」という疑問が起こってきたのも、「俺の生きる力を削ぐんじゃない!」と私の生命が声を発している証拠だったのでしょう。
人間にはやはり、ある程度の「制限」が要るものなのかもしれません。
現代社会では、普通の生活をしていて命の危険にさらされることはまずないです。
昔は日常で、生命の危機を感じ得た機会が多かったはずですが、現代ではまずそれがない。
故に、どうしても人間が腑抜けてしまう。
それに伴い、生命力も薄弱になってしまうのは避けられず、よって、このような「行」は現代人にはある程度必要なのかなと思います。
実は現代人の満たされなさや漠然とした不安というのはそういうところから来ているのではないか?と私は思っています。
結果的に、今回の断食はやってよかったといえるでしょう。
また色々と、自分のやりたかったこともこの断食中にも思い出しました。
ここ最近は、「コロナだから」とか、「どうせこの国には未来などないから」などとブーたれていて、想像力の段階から自分を制限し、かつ何をやっても意味がないからと、やりたいことをあらかじめ無かったかのように自分の思いの中に封殺していたのだと気づきました。
断食中に読んでいた、岡本太郎の本にこんなことが書いてました。
「結果がまずくいこうがいくまいが構わない。むしろ、まずくいった方が面白いんだと考えて、自分の運命を賭けていけば、いのちがパッとひらくじゃないか」
こんな強烈な言葉を断食中に読んだら、ずっと反芻しないわけにはいきませんわなw
私は闘うことを、はじめから放棄していたのです。
明日の、回復食がたのしみです
それでは