断食二日目
今日で断食二日目。
昨晩は、夜の瞑想が終わってから布団で寝転んでいたら眠りこけてしまっていた。
夜中や早朝に何度か目が覚めたものの、結局朝の8時まで寝ていて、しかも頭痛が酷い。
約10時間ほど寝ていたことになる。
この頭痛の原因は何なのか。 風邪をひいたときのような頭の痛さと身体のダルさがあり、朝起き上がるのが容易ではなかった。
身体も少しほてっていて、断食をすると身体が排出機能を強化させるために体温を上げるというがその反応だと思うし、これが浄化のプロセスであることを祈る。
とはいえ、我慢できないほどのものではなく、筋肉を落としたくないため豆乳を少し飲み軽くハチミツをなめた。 飲んでも頭痛が収まることはなかったが、身体の重さは減った。
豆乳を飲んだりしたら断食の意味がないだろうと思うかもしれないが、今回は苦行をしたいわけではなく、心身のある程度の浄化が目的。
あまり無理をした断食をしても宿便などでないのは過去の経験からも分かっているし、少し栄養を取った方が効果があるというのも聞いている。
今日も朝から45分×2回の坐禅をした。
ひたすら呼吸と丹田に意識を置くだけの瞑想で、何かテクニックが必要なものではない。
だが、最初の坐禅のときにいろいろな考えが頭をよぎった。
「果たして、断食をすることに意味はあるのか?止めちまえよ」
「俺はこんなに、生命力を減殺するようなことをして何がしたいのか!?」
「坐禅や瞑想も、結局生命力や生きる喜びを減殺することにはならないのか!?」
坐禅中は物思いに耽ってはいけないとされるが、私は禅マスターでもないのでそういうことはあまり気にせず考えるものは考える。
宗教や精神世界は、肉体を喜ばせることを嫌う傾向がある。キリスト教も、仏教も然りだ。およそ、欲を肯定する宗教といえば、タントラ密教くらいだと思うが、行き過ぎたタントラはやはり「邪教」扱いわうける
にしてもなぜ、おいしいものを食べたり、セックスをしたり、怠けたりすることを、戒めるのだ。
それはそれで意味あることなんだろうが、そんなに、肉体を喜ばすことが良くないことなのか?
イエスやブッダがそういったからか、盲目的に人類は従ってきただけではないのか?
そしてなぜ俺は、そういう肉体の快楽を避け、こんなことをしているのか
坐禅中にこんな感情が吹き出てくるのはきっと、生の歓びを閉じこめようとする私への生理的な反発なんだろうとは思っている
そういえば思い出した。
私はここ数日、岡本太郎の本を読んでいたんだった。
岡本太郎はよく、「無条件に生命を爆発させろ」という。
最近彼の本を読んでシビレた
「全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが『爆発』だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。いのちの本当の在り方だ」(「自分の中に毒を持て」岡本太郎)
うっとうしいしばりだらけのこの社会で、俺はさらに自分を抑えつけようとしていたんだ。
俺は誰かが作ったそのドグマに自らを合わせようとし、無理をしているだけかもしれない。
「生命を爆発」させるには、やはり主体はあくまでも自分であるべきであって、宗教のドグマではないのではないはずである。
宗教だの、瞑想だの断食だの、こういうことをやっていては、「生命を爆発」させることはできないのではないか?
これは、私が断食二日目に感じたある一つの感想であって、また明日には考え方が変わるかもしれないけど、よろしく
続く