インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話11
佐々井秀嶺師とお会いできたのは、師の誕生日である2012年8月30日の前日とかそれくらいだったでしょうか、あまり覚えておりませんが、師は祝賀パーティ参加のためにナグプールに帰ってきたのでした。
初めてお会いしたのは、ゲストハウスの中でした。
ドキュメンタリー映画と書籍でしかしらないこの人のために私はここまで来たのでしたが、さすがにお会いできるとなると緊張します。
来て何がしたいでもなく、師にお会いして、何かお手伝いでもさせて欲しい、そんな気持ちで来ましたが、今考えるとアポもとらずに来てずうずうしく失礼な奴だなと自分で自分を思ったりします。
若さ故の勢いというところもあったでしょうが、かといってももう30歳手前でありましたのでそんなに若い年でもない。 ただの世間知らずだったのでしょう。
師は、書籍や動画で見る姿と何も変わりはなく、私を丁重にもてなしてくれました。
「わざわざ、こんなところまで訪ねて来てくれましてすみません」
というようなことを言われたのを覚えております。
こちらが大変恐縮しました。
何をしに来たと言われたので、10日くらいここに居る予定なので何かお手伝いさせてくださいと、いうようなことを咄嗟に言いました。
佐々井師は忙しいらしく、まあ、ここでしばらくゆっくりしておいてくださいと言い、またどこかに行かれました。
8月30日前後に師の祝賀パーティがナグプールのあちこちで行われる予定であり、私は、佐々井師のお弟子さんのT氏や前回の記事で紹介したN氏らとともに、祝賀会に参加させてもらいました。
どこに行っても、盛大な歓待を受け、数百人の信者がいつも待ち構えておりました。
一体、どうやったら一日本人僧が、このインドという非常に特殊な国において、このように慕われ、尊敬を受けるようになるのか。
彼がインドでしてきたことは「破天」という本に描かれているのですが、彼は非常に無私で純真なのです。本人は性欲と自分の業の深さに自殺を二度も試みるほど悩みに悩んだようですが、そこまで悩むということ自体純粋な証拠でしょう。
佐々井師は、ナグプールに降り立った時、
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ」
と、決心したと「破天」には書いておりますが、まさに、インド人の心を掴んだのはこの「無私」の心故でしょう。
汚職の激しいインドにおいて、このような生き方をする人はインド人であれ日本人であれ、またどんな国の人であれ非常に信頼を得ていくのだと思います。
しかし、「言うは易し行うは難し」、であります。実際に40数年間もその態度を貫けたのは、人間業ではない。何が彼をそこまでの行動に駆り立てたのか、そのエネルギーの源泉は何なのか。
口では「菩薩行」と言いながらも、行動が伴わない大乗の坊主は多いものだと思いますが、菩薩の道を地で行くこの人は、行基、忍性のような、歴史上実際に存在した民の救済活動や社会事業に己の人生を捧げた偉大なる僧侶たちとダブってみえます。
私は、インド料理が身体に合わないことと、人間関係の距離の近さ、また社会と人の混沌さによって、インドに来て一週間で既に非常に体力を奪われており疲れておりましたが、40数年間日本に帰らず、このインドの地で怒涛の活動を続けるこの人の凄さをまざまざとインドに来て感じることになりました。
私も、佐々井師やまた歴史上の革命家のように、弱者に寄り添い社会のために闘う人間に成りたいと少なからず思うことがありますが、「俺にはとてもじゃないがこの人のようには成れん」と、思ったのを覚えております。
次回は、マンセルという、龍樹(ナーガルジュナ)が金剛薩埵(ヴァジラサットヴァ)から真言密教の経典を授かった「南天鉄塔」だと目されている遺跡に連れていってもらった話を書きます。
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