ナガサキ ナイトメア 長崎の原爆は、東洋一のカトリック教会を狙ったものだったと!?
8月7日早朝、広島市内を後にした私は、帰りに宮島の弥山へ登って、1200年前に弘法大師が護摩修行の時に焚いた火が今なおお灯されされ続けているという霊火堂を参った。
弥山は500mを超える宮島の霊山で、頂上には巨石が露骨に張り出し古代磐座信仰の痕跡が多く見られ、古代から続く霊山の雰囲気が伺える。眼下には水蒸気で霞む美しい瀬戸内海が広がり、日本随一の美観といった趣がある。
霊火堂の火は、広島の平和公園に灯されている「平和の火」の元火にもなった。 日本国の平和と安寧は、弘法大師の願いでもあっただろう。
私は、一度福岡に帰り、8日にまた長崎に旅立った。
福岡市からはJRで鳥栖を経由して長崎市内まで向かう。
今回長崎に行こうと思ったのは、もちろん前回の記事にも書いたように、戦後77年経つ日本の在り方について考えてみたくなったというのもあるが、その他、去年読んだある英文記事に書かれていた、長崎に原爆が落とされたことの「真相」についてずっと気になっていたからであった。
内容は陰謀論、都市伝説と言われる類のものではある。
つまりは、本来小倉を標的とするはずだったと言われている2発目の原子爆弾は、はなから、1926年にフリーメイソンを追放した長崎市をターゲットとし、そして「東洋一の大聖堂」と言われたカトリック教会の浦上天主堂を壊滅するのが目的であったということらしい。
このことは、David Dionisiという元米国陸軍の情報将校だった人物の著作にも詳細が書かれている。
私はこのDavid Dionisiの「原爆の秘密」という本も読んで見た。
記事の大半が、秘密結社の説明について裂かれているが、100ページ目には「フリーメイソン団員らは、1926年に長崎から放逐され、1930年代までには全員が日本から追放された。」と書かれてある。
日本が戦前フリーメイソンを追放したという事実は、ネットで調べる限りは出て来ないので本当かどうはは私にはわからない。
だが、日本に対して原爆を使用した当時のアメリカ大統領はハリー•S•トルーマンで、彼がフリーメイソンリーだったという証拠はネットで検索すれば写真付きで直ぐに出てくるし、そもそも米国が建国からフリーメイソンと深く関わりがあるのは、自由の女神像が象徴しているように、つとに知られていること。
実はフリーメイソンはカトリック教会とは長い間対立関係にあり、しばしば歴代の教皇がフリーメイソンをサタン王国と呼び非難している。
そんなカトリック教会の敵であるフリーメイソンが、もし巷間言われているようにアメリカにおいて国を動かすほどの影響力をもっているならば、憎き日本のカトリック教会を破壊するために、当時東洋一の大聖堂であった浦上天主堂を狙って原爆を落としたとしても一つの理由としては不思議ではないと思われる。
そもそも原爆が、軍需施設を攻撃対象とするのであれば、戦艦武蔵やその他人間魚雷などの特殊兵器を製造していた三菱長崎造船所を狙わないとおかしいだろう、と著者はいう。
だが、三菱造船所は爆心地から5キロも離れており、1909年に設置された巨大起重機は損傷を受けず、今尚2022年現在においても稼働し続けている。
以上の億説は、ばかばかしいと思う人が大半だと思うが、私が引っかかるのが、爆撃を受けて倒壊した浦上天主堂は、その遺構が本来であれば広島の原爆ドームと同様に原爆被害の象徴もしくは平和の象徴ともなりえたはずであるのに、原爆投下の13年後に取り壊されてしまったということだ。
これには米国の意向が強く働いたと言われている。
長崎市としては、1949年に「長崎市原爆保存委員会」が発足し、天主堂の遺構の保存に前向きであった。
だが、1955年、カトリック教会長崎司教区の山口愛次郎司教が、浦上天主堂の再建のため米国に資金援助を求め渡米した際、米国側から資金援助の条件として浦上天主堂遺構の撤去を求められたという。
また同時期長崎市は米国ミネソタ州のセントポール市と日米間の都市としては初となる姉妹都市提携を締結したのだが、当時の田川市長は天主堂遺構の保存に前向きであったにもかかわらず、締結の翌年1956年(昭和31年)に米国を訪問し、その帰国後は急遽保存に否定的な立場をとるようになった。
そして結局は、1958年(昭和33年)議会決定に反して、田川市長は撤去を決定した。
このことはWikipediaにも記載がある。長崎市民としても米国の意向が働いたと考えている人は多いというし、実際そう考えるのが自然であろう。
米国=フリーメイソンだというつもりはないが、もし米国政府に本当にフリーメイソンの息がかかっているのだとしたら、浦上天主堂が再建され、カトリック教会の信仰が強まることは避けたいのは当然ではある。
被曝した浦上天主堂の遺構を残すことは、被曝の歴史と悲惨さを後世に伝える役目としてはこれ以上のものはなかっただろうと思うが、歴史はそうはならなかった。
私は陰謀論を吹聴したいわけではないが、長崎を原爆投下の標的にした理由としては、あながち無いこともないのではないかというくらいには信じているが、確かなことは私にはわかりっこない。
ただ、陰謀は必ずあるし、陰謀論や都市伝説と言われるものの中にも真実は横たわっているのには違いない。「陰謀論」を無批判に信じてしまうのは思考停止に陥る罠だが、常識から外れた怪しい話をすぐに「陰謀論」だと言って一笑に付してしまうのもまた思考停止である。
ただこの話は多少オカルティズムと結び付けられているので、荒唐無稽だと言われてもおかしくはない。 私も完全に信じているわけではない。
一つの可能性として読んでいただけたら結構である。
9日は、宿を9時ごろに出て、中央橋バス停からバスに乗って平和記念公園まで向かった。
爆心地公園という広場が、平和記念公園の隣にあるが、記念式典に参加できない私はしばらくその公園で佇んでいた。
原爆投下された日である8月9日の長崎はどのような雰囲気なのだろうという興味は、広島の時と同様興味があった。
あれから77年経つ今日を、長崎市民は、そして日本人はどのような気持ちで過ごすのか、それを自分の目で見て、その雰囲気を感じてみたかった。
爆心地公園では、モニュメントに多く献花が捧げられ時おりその前に跪き手を合わせる人たちがいる。
そして公園の各所には政治的な主張を演説する人、原爆被害の写真を展示している団体、また音楽を奏でているミュージシャン、団扇太鼓を叩きお題目を唱和する仏教団体などがいたが、規模と混沌度合いでいえば広島よりもずいぶん小さいものに見えた。
公園のモニュメントの傍らには、あの浦上天主堂の遺構が移築されて残っている。完全に遺構を撤去してしまうに至らず、ここに保存されたのには信者の願いも込められているのだろうと思う。
私は、公園内の雰囲気に少し飽きてしまったこともあり、また少し時間があったので、歩いて数分のところにある浦上カトリック教会(旧浦上天主堂)へと向かった。
聖堂には殆ど人はいなかったが、薄暗い堂内の静寂で落ち着いた雰囲気に気が安らいだ。
浦上教会の資料館では原爆で被害を受けた遺物の展示があり、爆弾の破壊力の強さと残虐さを知るには十分だった。
ここでは、信者でもない私が長居するのもなんだか場ちがいのような感じがし、また燦々と照りつける太陽とじめっとした暑さに辟易して早々と立ち去ったが、今思えばもう少し確認しておけばよかったものもいくつかある。
私が再度爆心地公園にもどったのが11時前くらいで、先ほどよりも多くの団体と市民が集まってきていた。
どこかの労働組合などが集まった左翼団体が道路でデモなどをしていたが、その旧態依然とした彼らの運動は盛り上がっておらず、また構成員は中年以上の男性ばかりであった。
日本の政治運動の貧困さを垣間見たような気がした。 これで若者が政治に興味持つわけがないのだ。
こんな政治運動であれば現政権も危機感を感じるはずもないだろうし、日本の政治を牛耳るものとしては安心して日本の政治を私物化できるだろう。
11時2分、原爆が長崎に投下された時間、あたり一帯は急に静まり返り、公園の人々は一斉に黙祷し祈りを捧げた。
その時ばかりは、どの人も厳粛な面持ちで黙っていた。
おそらく、皆それぞれ政治的主張も違うだろうし、平和に対する考え方も思いの深さも違うだろうが、死者への哀悼の思いだけは一緒だったに違いない。
私は黙祷が終わったあとも、ずっと爆心地公園に佇んでいた。 暑くて動きたくないというのもあったが、皆どんな思いで運動をしているのかということが気になってそれを眺めていた。
昼過ぎには原爆資料館へ行った。 13時20分には閉めるのでそれまでには出てくれというので、ゆっくりと観る時間がとれなかったが、原爆の悲惨さを感じるには十分であった。
定説であれば、2発目の原爆は私の故郷である小倉に落されるはずだったと言われている。
1945年8月9日の小倉上空は曇り空であり、市内を目視することができなかったため、プルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を搭載した飛行機は次の投下目標であった長崎へ向かい、長崎の無辜の市民数万人を一瞬にして吹き飛ばした。
だが「原爆の秘密」を書いたDavid Dionisi曰く、当時の小倉は曇っておらず、初めから長崎がターゲットだったと著作で言っているが、それは本当かどうかはわからない。
ただ、もし小倉に原爆が投下されていたら私はこの世に生まれてはこなかっただろうし、そう思うと、長崎は私たち小倉の人間の代わりに犠牲になったのだと若干後ろめたい気持ちが芽生えたりもするのだった。
長崎の平和記念公園にも、多くの献花や供物が捧げられていた。
原爆の被害を受けた人は喉の渇きから水を求めて死んでいったというので、献花する用意のなかった私はコンビニで何本かの水を買ってきて供え、被害者たちへのせめてもの供養とした。
平和祈念像の前にもたくさんの人が祈りを捧げていた。
こういう人々の姿を見ると本当に尊いなあという気持ちがする。
この平和祈念像は、
「右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた左足は救った命を表し、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている」
とWikipediaにはあるが、
David Dionisiは
「右手指先が原爆が爆発したところを指しており、左手は浦上天主堂を指している」
という。
私は確認し忘れていたが、浦上天主堂から見ると確かに左手はそちらを向いているらしい。 もしそうだとしたら何故?
私は、夕方の電車で福岡に帰る為、早々に長崎市内を後にした。
電車の中で、何故日本が人類初の原爆被害を受けなければならなかったのか、ということを考えていた
しかも2発も、だ。
徹底的に白人支配に抗ったがために、彼らは日本を徹底的に潰してしまわねばならなかったとでもいうのだろうか。
だが、非戦闘員である無辜の市民を狙った爆撃など、どう考えてもその意図的な殺戮を正当化することはできない。
もし、日本に原爆を受けるにあたる深いカルマがあったのだとしたら、また日本には人類を核の破滅から救う使命もあるように思えてならない。
だが、福島の原発事故まで起こしてしまい、それを推し進めてきた政党を支持しつづける日本人だ。
我々にはその自覚は全くないのではないかと思い私は絶望に暮れている。
だが、今後の我々の未来に対する献身的な努力と、人類の歴史に責任をもつというかたい決意があれば、それも可能であろうと思い自分を慰める他はない。