イスラーム世界の繁栄
イラン世界の動き
ティムール朝(1370~1507)
◎ティムール(位1370~1405)
→西チャガタイ=ハン国から自立
都:サマルカンド
モンゴル帝国のような陸路を接続できるような国を作りたかった。
◎イル=ハン国の領土を征服
→イラク・イランを支配
◎キプチャク=ハン国を攻撃
→南ロシアへと進出
◎トゥグルク朝を征服
→西北インドを支配
◎アンカラの戦い(1402)
→オスマン皇帝を捕縛
ティムール死後の世界
◎ウルグ=ベク(位1447~49)
→文学・天文・暦法・建築・細密画(ミニアチュール・書物の挿絵)の発達
◎遊牧ウズベク(ウズベク人)
→中央アジアから南下、ティムール朝滅亡。ウズベク人の国を作る。
●ブハラ=ハン国(1500~1920)
●ヒヴァ=ハン国(1512~1920)
●コーカンド=ハン国(1710ごろ~1876)
→これらの国は現在のウズベキスタンの母体となっている。
イラン世界の繁栄
◎サファヴィー朝(1501~1736)
◎イスマーイール(位1501~1524)
→神秘主義教団の指導者。カリスマ的な人気。
都:タブリーズ
外部民族の侵入からどう国を守るかが課題だった
●シーア派の国教化(十二イマーム派、比較的穏健)
→これ以降この地域はずっとシーア派。
●王号:シャー(イランの伝統的王号)
→イランっぽさを演出し国の代表であることを強調。
◎アッバース1世(位1587~1629)
→全盛期
●イスファハーンへ遷都(1597)
→「世界の半分」と称される
●イマームのモスク建立
●ホルムズ島の奪回(1622)
→海の道の重要地。ペルシア湾の出入り口。
オスマン帝国の領土拡大
オスマン帝国の支配
◎オスマン帝国(1299~1922)
●ティマール制(軍事封土制)
→シパーヒーに対し、分与地とその徴税権を与える。
→この制度があるため、常に領土を拡大していく必要があった
●キリスト教徒の男子を改宗
→教育・訓練を施して高級官僚や軍人を育成。優秀な人物であれば異教徒でも積極的に採用した。→デヴシルメ制と呼ぶ。奴隷は購入しなければならないが、これらは無料だった。(強制徴用)
●イェニチェリ(奴隷身分兵士)
→皇帝直属の常備歩兵軍団。待遇はかなり良かったため強い。
バルカン半島への進出
◎オスマン1世(位1299~1326)
→建国者、アナトリア西部で自立(1299)
→イスラム教徒に対して同じ宗教の地域より異教徒の地を攻めた方が口実としては都合がよく、改宗しなければジズヤを払わせることができるため、バルカン半島に進出した。
◎建国時の周辺事情
13世紀の小アジア(アナトリア)西部は、セルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝が支配していたが、十字軍運動の侵攻を受けて衰退、さらに東方からのモンゴルの侵入を受け、1242年その属国となった。ルーム=セルジューク朝の弱体化に伴い、小アジアにはトルコ人のイスラーム戦士の集団であるガーズィーが無数に生まれ、互いに抗争するようになった。その中で有力なものがベイ(君侯)を称し小規模な君侯国を創っていった。オスマン帝国の創始者オスマン=ベイもそのようなベイの一人。
◎ムラト1世(位1359~1389)
都:アドリアノーブル(エディルネ、バルカン半島東南)
→ここを奪って都とした
●コソヴォの戦い(1389)
→スラヴ勢力を撃破
◎バヤジット1世(位1389~1402)
→ハンガリー王を破り、ドナウ川下流域を支配
●アンカラの戦い(1402)でティムールに敗北
→バヤジット1世は捕縛され10年間皇帝がいない時期が続いて危機に陥る。
オスマン帝国の転換期
◎メフメト2世(位1444~1446,1451~1481)
●ビザンツ帝国を征服(1453)
→コンスタンティノープルへ遷都、一大貿易都市であったため資金が大量に入ってくる。領土の拡大の必要がなくなる。
●クリミア半島を支配
●ミレット制
→ イスタンブル再建にあたって、ムスリム以外の異教徒を、三つの宗教共同体(ミッレト、またはミレット)に組織した。3つとは、ギリシア正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒でありすべての非ムスリムはこのいずれかに属し、各ミッレトはその長を任命し、ミッレトごとに貢納の義務をもつかわりに、彼らの固有の信仰と法と習慣を認められ、自治を行った。
◎セリム1世(1512~1520)
●サファヴィー朝と抗争
●マムルーク朝を征服(1517)
メッカ・メディナを支配、スンナ派盟主の地位を確立。さらに貿易ルートの拡大に成功。
◎スレイマン1世(位1520~1566)
●ハンガリー征服(1526)
→領土拡大を完全にやめたわけではない。
●第一次ウィーン包囲(1529)
→神聖ローマ皇帝カール5世と衝突。突然の寒冷化により1か月もしないうちに撤退。
●プレヴェザ海戦(1538)
→スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊に勝利。地中海地域での制海権を掌握。一大商業国家へと成長。
●スレイマン=モスクの完成(1557)
インドのムガル帝国
インドのイスラーム国家の繁栄
◎ムガル帝国(1526~1858)
◎バーブル(位1526~1530)
●パーニーパットの戦い(1526)
→ロディー朝を破りデリーを占領・建国
ヒンドゥー教徒が多い地域でどう支配するかが課題。
◎アクバル(位1556~1605)
●マンサブダール制(官僚制度)
→支配層は位階ごとに禄(マンサブ)が定められ、その額に応じた騎兵と騎馬を養い、帝国の軍事力を支えた。位禄として与えられる給与は、土地からの徴税権(ジャーギール)の形をとった。
●人頭税(ジズヤ)の廃止
→ヒンドゥー教徒が多すぎたため迎合した
●アグラへ遷都
ムガル帝国混乱の時代へ
◎シャー=ジャハーン(位1628~1658)
●タージ=マハルの造営(1648)
→アグラに建設した奥さんのマハルの墓。お金をかけすぎて財政難に陥る。
◎アウラングゼーブ(位1658~1707)
●人頭税(ジズヤ)の復活(1679)
→財政難の立て直しを図った。
●デカン高原を征服、最大領土を形成(17世紀後半)
→税金を取れる地域を増やすため。
アウラングゼーブ帝の死後、各地でヒンドゥー教徒が反乱を起こしてしまう。
インド=イスラーム文化の発展
◎細密画(ミニアチュール)の影響
●ムガル絵画…宮廷芸術、肖像画や動物画
●ラージプート絵画…ヒンドゥーの神々を扱った宗教的・庶民的な絵画
◎公用語:ペルシア語、ヒンディー語
→ペルシア語はお隣サファヴィー朝の影響
◎ウルドゥー語…ペルシア語やアラビア語の影響。現在のパキスタンの公用語。
◎ナーナク(1469~1538)
→イスラーム神秘主義をヒンドゥー教改革に導入、シク教の成立(16世紀初頭)