「事実をありのままに見ているか?」~GRゼミ第10期 第3回「人口減少社会において、地域が生き延びる方法」(講師:藻谷浩介さん)レポート
5月24日第3回目の講義レポート担当のオードリーです。札幌からオンラインで参加しています。
ゲスト講師の藻谷浩介さんは、日本総合研究所 主席研究員や日本政策投資銀行 地域企画部 特任顧問を務められ、『デフレの正体』や『里山資本主義』といった著作もおありです。
私は、かつての勤務先でお話をうかがったことがあり、独特のユーモアあふれるお話と、それをきっかけに読んだ「デフレの正体」がかなり印象的だったので、大変楽しみにしていました。
そして予想以上に脳味噌の筋肉を使いまくる時間となったのでした。
■「事実をありのままに見る」
冒頭で藻谷さんから強く言われたのは、
「今日は、どうしてこうなったのかとか、何をしたらよいのかとか、そういった議論はできるだけしない」
「まずは事実をありのままに見ること」
ということでした。
講義は、終始、東京の人口動態数値を見ながら始まりました。
「東京で転入超過(入ってきた人のほうが出ていく人よりも多い)となる15~44歳世代でも、人口で見ると減少となるのはなぜ?」
「具体的にはどういった人が減っているのか?」
と、藻谷さんからゼミ生に矢継ぎ早に問いが投げかけられ、ゼミ生はそれに答えていきます。
そこで気づかされたのは、年齢別にみることと、今見ている年齢層が、将来は何歳になるかを想定することの重要性です。
その後、ゼミ生がいま住んでいる場所の人口動態と東京のそれとを比較しながら、各地域の課題を紐解いていきます。
データを目の当たりにすることで、ゼミ生が勝手に抱いていた課題や解決策のイメージが覆されていきます。
人口動態と地域の話は、マスコミなどでもよく話題にされます。私たちはそういった世の中の言説で、課題について勝手な印象を抱きます。そのイメージだけ議論すると的外れになってしまうことの危険性を感じました。
■実例を読み解く(明石市、流山市について)
人口減への対応は、日本全国の行政における共通課題です。どの地域も重点を置くのが子育て世代の増加策。現役世代のみならず、彼らに子供ができることで将来の人口も見込めるからです。
成功例としてよく名前があがるのが、兵庫県明石市と千葉県流山市です。
後半は、この二つの市の施策について講義がありました。このあたりから、学長ゆーてぃーの、元市長としての視点や考えを取り入れながら話は進みます。
子育て支援策について、藻谷さんからゼミ生に問いかけがありました。
「子育て支援策に(親の)収入制限は行うべきか?行わないべきか?」
さて、みなさんはどうお考えになるでしょうか?
いろいろな意見はあるかと思いますが、「すべての子どものために」を旗印に施策を充実させているのが明石市です。徹底した子育て支援の効果もあり、日本全体ではここ最近で半減している0~4歳人口が増えています。
明石市の特徴は、ニュータウン建設や移住者に頼らない点にあります。同じく「子育てしやすい街」流山市は、大規模な都市開発とマンション建設による効果もありましたが、明石市はそれを行っていません。
ニュータウン型の都市は、開発当初に一時的に子ども世代が増えても、彼らが成人してしまった後は、マンション住人である親世代の高齢者が残るばかりということが起こります。実際にゼミ生の居住地でも、そのような現象が起こっていることが藻谷さんの示すデータで確認されました。
では、明石市の施策は、他の市町村でも真似ることがきるのかというとそうではない、と藻谷さんは言います。同じ施策を隣の神戸市で効果が見込めるかというとそうではない。人口構成も住んでいる人の特性も異なるから。そこが人口増施策の難しさ。だからこそ、地域ごとの人口の在り方をデータを含め直視することが重要といえます。
■ちいさな「あれ?」を大切にする
講義に先立ち、冒頭に藻谷さんは、受講者一人ひとりがどこに住んでいるか質問されました。受講者が答えるのに間が開くと、「どんどん発言しなさい!」と促され、緊張感が走りました。
実はオンラインでの参加者は、音声が聞き取りにくいところがあって、様子がよくわからない状況でした。思い切って「(オンライン側では)よく聞こえていません」といったところ、すぐに改善してくださいました。
私たちは「講師」といった権威ある存在に対して、つい何か言うことをためらってしますところがあります。自分の発言が相手の話の邪魔をしたり、全体の流れを阻害したりしてしまうのでは…と、つい遠慮してしまいがちです。しかし、そんな遠慮していては、問題は解決しないのだということを講義の中で気づくことができました。課題解決の第一歩は、日常感じているちょっとした「あれ?」と思ったことを大事にすること。そしてそれ表に出していくことを恐れないことだ・・・そんなことにも気づく時間となりました。
あまり忖度なくものごとをいえる私のような「おばちゃん」の存在価値も、もしかしたらこのあたりにあるのかもしれません(笑)。